川口義信さん(85)
被爆当時8歳 長与国民学校3年 爆心地から3.3キロの長与村高田郷(当時)で被爆

私の被爆ノート

「われ先に」水求め

2021年9月2日 掲載
川口義信さん(85) 被爆当時8歳 長与国民学校3年 爆心地から3.3キロの長与村高田郷(当時)で被爆

 当時は祖父母と母、姉、妹3人と8人暮らし。父は徴兵され、うちにはいなかった。
 自宅から50メートルほど離れた親戚の家の縁側で、3歳ほど年下のまたいとこと積み木で遊んでいたときだった。ピカーっと光った直後、辺りが暗くなり、ドーンと大きな音がしたのを覚えている。「何かが落ちた」「やられてしまう」。瞬時に、逃げなければならないと感じた。親戚宅ではいとこのお姉さんが夏風邪で寝ていた。倒れたたんすの下で「助けて、助けて」と叫んでいたが、自分の身を第一に考え、自宅まで飛んで帰った。お姉さんの方は振り返らなかった。自宅に帰ると、祖母に連れられ、すぐに自宅裏にあった防空壕(ごう)に入った。
 母は自宅から1キロほど離れた田んぼで草取り中に被爆した。防空壕で合流したが、「どのようにして戻ってきたか覚えていない」と言っていた。私を含め5人の子どもを心配し、無我夢中で帰ってきたのだろう。祖父は自宅から1キロ足らずの場所にあった畑にいた。帰宅中、原爆の影響で近所の家が燃えており、その家から荷物を外に出すなど現場を手伝ったらしい。家族8人ともけがはなく、親戚宅のたんす下で助けを求めていたお姉さんも無事だった。
 自宅の小屋には、親戚の女性が疎開していた。原爆が落ちた時、彼女は外から小屋の中に戻ろうと、入り口にいたらしい。小屋はつぶれ、彼女は手を骨折した。
 翌日、周辺の様子をうかがいに道ノ尾温泉の方に向かうと、浦上の方から逃げてきたと思われる見知らぬ人ばかりがいた。恐らく200人以上はいただろう。道ノ尾温泉のそばには「湯川」と呼んでいた飲み水が流れる浅い井戸のような場所があり、けがややけどを負った人たちが水を求めて集まっていた。しかし、水を飲むためのひしゃくが1個か2個しかなかったようで、集まった人たちは「われ先に」と水を求め、けんかしていた。けんかの様子は、今も鮮明に記憶に残っている。
 水を飲んだ後は皆、道ノ尾公園の入り口や、公園にあった桜並木の木陰に横たわり、寝ていたようだった。医者の数が足りず、けがをしていてもやけどをしていても、ただ横になるしかなかったのだろう。死んだ人もいれば、苦しみながらうなっている人もいた。皆がそのような状態だった。自分は、その様子を見ていることしかできなかった。

◎私の願い

 核兵器の廃絶に向けて多くの人が運動しているが、核兵器はなかなかなくならない。原爆はもうこりごり。二度と落としてほしくない。建物や自然、自分たちの生活を一瞬で壊してしまう「あんなもの」は本当にいらない。

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