久松チヱさん(90)
被爆当時14歳 爆心地から1.1キロの大橋町で被爆

私の被爆ノート

死に物狂いで逃げた

2021年08月19日 掲載
久松チヱさん(90) 被爆当時14歳 爆心地から1.1キロの大橋町で被爆

 西彼杵郡長浦村(当時)の長浦村国民学校高等科を1945年3月に卒業して、同月下旬から三菱長崎兵器製作所大橋工場に勤務していた。魚雷の部品を手作業で削り、検査担当の部署に運んでいた。
 住吉地区の寮に入ったが、農家だった長浦村の実家にいたころより、食料事情は悪かった。実家では麦飯や野菜を食べて空腹にはならなかったが、寮ではコウリャンなどが出され、味は悪く量も少なかった。空襲警報が鳴ると、赤迫の横穴に連れて行かれ、何とも言えない気持ちになった。日曜は休みだったが、空襲を警戒して外出は控えていた。
 8月9日は普段通り工場の1階で作業をしていた。突然、聞いたことがないような大きな音がした。爆風や閃光(せんこう)は記憶にない。柱が傾き、下敷きになると感じ、急いで建物の外に逃げた。外に出ると、足の踏み場もないくらい人や牛馬が倒れていた。
 大橋工場に働きに来ていた同級生の女子2人と実家を目指した。「ここはどこだろう」と不安な気持ちで声を掛け合った。どこを見ても焼け野原で市内の見慣れた風景は、すっかりなくなっていた。道ノ尾方面に向かって歩き、男性から「ここは時津だよ」と教えてもらったとき、「家に帰ることができる」と感じた。
 いつのまにか左腕から血が流れ、靴も破れてなくなっていた。食料や水を持っておらず、ほとんど休憩しなかった。必死だったから暑さを感じなかった。砂利道をはだしで歩き続けたので、とがった石を踏んだ部分は傷だらけ。今でも足裏の皮膚は硬い。
 夕方ごろ、実家に着くと、母らが待っていた。母は農作業をしているとき、畑からきのこ雲を見て、私の安否を心配していたという。「どうやって帰ってきたのか」と、私を抱き締め、涙を流して喜び合った。本当にあの時は必死で死に物狂いだった。怖くて地獄のような時間だった。
 翌日、母に連れられ、住吉の寮を訪ねた。建物は残っていたが、実家から持参していた家族写真や卒業アルバムなど私物はなくなっていた。戦後は実家の農業を手伝い、27歳で結婚。一緒に逃げた同級生たちとは自宅が離れていたこともあり、その後、ほとんど会わなかった。互いのけがは心配だったが、40歳ごろ同窓会で会ったきり。その後亡くなったと聞き、もっと話せばよかったと後悔している。

◎私の願い

 嫌なこと、つらいことしかないから戦争はなくなってほしい。当時を思い出すので、戦争の映像をテレビで見ることさえ嫌い。世界全体が仲良くなり、一つにならないと戦争はなくならない。子や孫たちのため幸せな世界になってほしい。

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