荒川賀津子さん(81)
被爆当時5歳

私の被爆ノート

黒い雲に恐怖心

2021年08月05日 掲載
荒川賀津子さん(81) 被爆当時5歳

 1944年ごろ、長崎市内から母の古里・南高北有馬町に疎開した。福岡県小倉市(当時)で働いていた父を除く、母、兄、姉、私、妹の家族5人は、電気もない小屋に移り住んだ。
 当時5歳。あの日、近くに住む母方のいとこたちと外で遊んでいた。戦死した叔父の葬儀に出掛けていた母が「家の中に入れ」と叫びながら戻ってきた。長崎方向の空を見ると、黒い雲のような固まりがもくもくと立ち上っていた。すぐに屋内に逃げ込んだが、恐怖を感じた。天気のいい日だったが、次第に空は薄暗くなり、黒い雨が降ってきたのを覚えている。原爆に関する記憶はこれだけだ。
 幼心に最も印象に残っているのは終戦後、伯母に手を引かれ、廃虚と化した浦上一帯で、行方が分からない伯母のきょうだいの伯父とその家族を捜し歩いた際の出来事だ。
 終戦後の暑い日、伯母に連れられ長崎へ向かう道中、列車の中で無言のまま横たわる3人の子どもを見た。体に巻かれた包帯には、うじ虫が大量に湧いていた。その光景が目に焼きつき、空腹だったが、母が作ってくれたおにぎりがのどを通らなかった。浦上付近に到着すると、地獄のような焼け野原が広がり、いくら捜しても伯父家族は見つからなかった。
 夕方になり、途方に暮れていたら、伯母が突然、50センチほどの石柱に抱き付いて大泣きした。そこが伯父宅の跡だと分かった。そこへ長崎に上陸していた進駐軍の車が列をなし、近くを通りかかった。伯母は泣きながら「バカヤロー」と叫び、車の前に立ちふさがったので、慌てた周りの人たちが止めに入った。
 その様子を見ていた若い兵士が私に気付き、笑顔を向け白い綿袋を投げてくれた。中にはチョコレートとビスケットが入っていた。その先の記憶はない。次に覚えているのは、寺の観音堂。伯父夫婦と幼いいとこの遺体があった。
 その後、生き残った2人のいとこが原爆孤児となったと聞いた。「焼き場に立つ少年」の写真を見ると、いとこに似ていると思うことがあり、今でもその姿を思い出す。
 母の言いつけもあり、差別などを恐れて原爆に遭ったことは長く口外しなかった。伯父家族を捜す途中、何度も転び手を切った。被爆者健康手帳は取得しなかったが、今では指の変形は被爆が原因ではないのかと感じている。

<私の願い>

 原爆は怖いというより地獄。戦争は絶対してはならない。戦後の生活苦もあり私は一時期、養女に出された。私のいとこのように、家族を亡くしたことで孤児になるなどつらい体験をした人も多くいると思う。これからも平和が続いてほしい。

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