田口 トミヱ(90)
田口トミヱさん(90)=長崎市
被爆当時18歳 瓊浦高等女学校生徒
爆心地から7.5キロの長崎市小ケ倉町で被爆

私の被爆ノート

苦しみ亡くなった姉

2017年08月03日 掲載
田口 トミヱ(90) 田口トミヱさん(90)=長崎市
被爆当時18歳 瓊浦高等女学校生徒
爆心地から7.5キロの長崎市小ケ倉町で被爆

 両親、二つ上の姉、二つ下の弟、10歳下の妹の6人家族。自宅は長崎市茂里町にあったが、小ケ倉の叔父の家に疎開していた。ただ姉だけが三菱長崎兵器製作所大橋工場に動員され、寮に暮らしていた。
 私は毎朝、戸町から船に乗って、動員先の三菱長崎兵器製作所茂里町工場へ通っていた。あの日は船に乗る前に空襲警報が鳴ったため、いったん家に引き返した。しかし休めば上司に怒られると思い桟橋に戻ったが、船はもう出た後だった。もし乗っていれば、工場で被爆し命はなかったかもしれない。
 それから家に帰り、外周りの掃除をしようとしていた時だった。青黒い光が視界を覆い、強い風が襲ってきた。姉のことが心配になり、高台から街の様子を見ようと近くの山に登った。途中、空を見上げると、黒や灰、柿色などさまざまな色の雲が流れていた。
 自宅にいた母と弟、妹は無事で、川南造船所に勤めていた父とも再会できた。ただ姉の安否は分からず、父が大橋工場付近を捜して回った。亡くなったのだろうと諦めかけていたら、銅座町で父が姉とばったり再会した。
 姉は工場で被爆した。倒れてきた机の下敷きになり、頭をけがして、救援列車に乗せられたらしい。しかし途中で怖くなり、一人で列車を降りて長崎駅を目指して歩いてきたという。
 姉がこのまま長崎にとどまることを嫌ったこともあり、伯母の家があった口之津へ家族で避難した。姉は頭の傷を治療するため毎日病院に通ったが薬はなく、大した処置はしてもらえなかった。
 9月に入ったころ。姉の具合が急変した。40度の高熱に加え、顎との区別がつかないほど首の甲状腺が腫れ、ご飯を食べることもできなくなった。「冷たいものがほしい」と言うので、氷を食べさせてあげた。
 姉の口の中には斑点ができて、茶褐色のよだれが出てくるのを私が拭いていた。息をするのも苦しそうで、数日後に亡くなった。あまりにも哀れな死に方で、地獄を見ているようだった。
 時に厳しくも優秀で頼りになる姉は、私の自慢だった。これまでの人生でつらいこともあったが、「姉の分まで強く生きなくては」という気持ちで乗り越えてきた。戦争や原爆さえなければ、という気持ちは一生消えない。姉のことを思うと今でも悔しくて、涙が出る。

<私の願い>

 自分さえよければ人のことはどうでもいいという人が多いように感じる。戦争のない世の中をつくるためにも相手に思いやりを持って接することが大事。戦争はもう二度と起きてほしくないし、一日も早く核兵器がなくなることを願っている。

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