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私の被爆ノート松浦 守寛さん
松浦 守寛(82)
松浦守寛さん(82)=長崎市=
被爆当時10歳 伊良林国民学校4年
爆心地から3.3キロの長崎市伊良林町2丁目(当時)で被爆

私の被爆ノート

一瞬で頰をやけど

2017年08月17日 掲載
私の被爆ノート松浦 守寛さん
松浦 守寛(82) 松浦守寛さん(82)=長崎市=
被爆当時10歳 伊良林国民学校4年
爆心地から3.3キロの長崎市伊良林町2丁目(当時)で被爆

 両親、祖父母、6歳下の弟との6人家族。自宅は木造2階建てで、市街地が見下ろせる伊良林町2丁目(当時)の高台にあった。あの日、兵隊に召集されていた父は不在。教師だった母も磨屋国民学校(現諏訪小)に日直当番で出勤していたので、家には私と祖父母、弟の4人でいた。
 当時、自宅の真下には4人がなんとか入れる防空壕(ごう)があったが、焼夷(しょうい)弾で焼け死ぬから使ってはいけないと誰かに言われたらしい。このため祖父が、自宅そばにあった近所の人の墓の下に、6人が入れる新たな壕を掘っていた。
 朝から警戒警報、空襲警報が鳴ったため、4人で墓下の壕に避難したが、空襲警報が解除されたので帰宅。1階の居間に4人で座ってくつろいでいた。雨戸が開けっ放しになっており、青い空が見えていた。
 突然、ピカッと稲光のような強烈な光が辺りを照らした。光の方に体の左側を向けていた私は左頰を、私の対面にいた弟は右頰を一瞬でやけどした。障子の和紙に火がついたが、爆風で倒れて燃え尽きた。
 下部にガラスがはめられていた障子や、陶磁器なども倒れて破片が飛び散り、室内は散らかっていた。梁(はり)の上に置いていたラジオも爆風で吹き飛ばされ、コードが梁に引っ掛かりぶら下がっていた。祖父が「家に爆弾が落ちたぞ。外に出ろ」と叫んだが、外に出るのが怖かった。いったん壕に逃げたが、夜は自宅に戻って寝た。
 2、3日たっても、あちこちで火事が起き、夜の街は赤く染まっていた。昼間も、黒煙と黄色い土ぼこりが混じり視界が悪かった。近所の人は時折、土ぼこりの向こうに輝く太陽を見て「また何かきたぞ」と叫んでいた。そのうち「何か」は「ピカドン」と呼ばれるようになり、新しい爆弾が長崎に落とされたことを知った。
 左頰のやけどは真っ赤になり、水膨れになった。新しい爆弾のやけどには「柿渋」が効くと人づてに聞き、渋柿をつぶしたものを柿の葉に塗り、頰に貼ってもらった。
 家族は原爆投下後も比較的健康だった。しかし、10年後、祖母は肝臓がんで亡くなり、祖父も15年後に別のがんでこの世を去った。祖父母は被爆しなかったらもっと長く生きられたと思う。祖父は入院中、亡くなる直前まで「自宅に帰りたい」と言っていたのがふびんでならない。

<私の願い>

 原爆は一瞬で何万人もの命を奪った。地球上から核兵器が廃絶されるよう長年願っている。北朝鮮と米国が核戦争を始めたら世界がどうなるか心配。人類が仲良く暮らせるよう、絶対に戦争をしない世界を、若い人たちにつくってもらいたい。

 ▽被爆体験を話していただける方を探しています。連絡は報道部(電095・846・9240)へ。

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