鈴木 一郎
鈴木 一郎(83)
鈴木一郎さん(83)=長崎市=
当時12歳 新興善国民学校6年
爆心地から3.1キロの長崎市出島町で被爆

私の被爆ノート

雷が落ちたような光

2017年7月20日 掲載
鈴木 一郎
鈴木 一郎(83) 鈴木一郎さん(83)=長崎市=
当時12歳 新興善国民学校6年
爆心地から3.1キロの長崎市出島町で被爆

両親と3人で出島町岸壁そばの木造2階建ての家に住んでいた。父は雑穀や肥料の輸入会社を経営していて、家の隣に事務所を構えていた。
あの日は夏休み中の登校日だったが、警戒警報が鳴ったためすぐに自宅に帰るよう指示があった。自宅1階に母とお手伝いさん2人の計3人がいて、父は事務所で仕事をしていた。私も帰宅後、自宅1階の居間で寝転んで本を読んでいると、突然ピカッと雷が落ちたような光が視界を覆った。爆風で砂ぼこりが舞い、何も見えなかった。吹き飛ばされないように床にうずくまった。爆風がやんでから、手探りで自宅地下の防空壕(ごう)に向かった。その時、母が大声で私の名前を呼んだらしいが、何も聞こえなかった。
壕は両親とお手伝いさんと私の全員が入った。幸い誰にも大きなけがはなかった。でも、ふと自分の両手を見ると、傷だらけで血まみれになっていた。気付かないうちにガラスの破片を触ってしまったのだろう。何が起きたのか分からなかったが、自宅を爆弾が直撃したと思い、また爆弾が落ちてこないか心配でたまらなかった。相当広い範囲で凄惨(せいさん)な被害が起きていたことを知るのは、もっと後になってからだ。
1時間ほどたって壕から顔を出すと自宅の中は、木くずやガラスの破片、本などが散乱して足の踏み場がなかった。引き戸のサッシにいくつもガラス片が突き刺さっていた。自宅の外に出ると、県庁の屋上から立ち上った煙が大きな炎となり、周辺に燃え広がるのをぼうぜんと眺めた。自宅に戻ると、私の勉強部屋があった2階は窓ガラスがすべて割れていた。
1週間後、父の会社が駒場町(現松山町)に所有していた搾油工場の状況を確認するため、父と一緒に歩いて行った。途中、防火用水が入ったバケツに頭を突っ込んでいる遺体があった。牛や馬が何頭も倒れて死んでいて、虫が湧いていた。
工場付近は焼け野原。父と一緒に工場の跡地を半日かけて掘り起こし、従業員とみられる数人の遺骨を集めて持ち帰った。その後、父は何の症状も出なかったが、私は全身に発疹が出て、髪の毛が全部抜けた。医者は「助からないだろう」と両親に告げていたという。治療法がないため、母が柿の葉を煎じて毎日飲ませてくれたことが忘れられない。それから数年間、髪は生えなかった。

<私の願い>

原爆の悲惨さは忘れられない。被爆した地を自分の足で歩き、原爆で亡くなった人を自分の目で見た。今後、そんな経験を誰にもさせてはならない。特に若い世代には、原爆について知ってもらい、平和について考えてほしい。

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