相川恵美子(92)
被爆当時18歳 爆心地から2.7キロの長崎市五島町で被爆

私の被爆ノート

自宅に身元不明遺体

2019年10月03日 掲載
相川恵美子(92) 被爆当時18歳 爆心地から2.7キロの長崎市五島町で被爆
 
 当時は岡町に住んでおり、現在の平和祈念像の近くに自宅があった。カトリックの家庭で、父は三菱重工業長崎造船所に勤務していた。私が9歳の時、父が上海に転勤となったが、家族のうち私と兄だけは祖母と暮らすために長崎に残った。
 1944年に鶴鳴高等女学校を卒業。学徒動員先だった九州配電長崎支店に就職した。この頃、祖母が亡くなり、兄はビルマに出征した。被爆当時は、私と、進学のために長崎に戻ってきた妹を案じ、興善町に住んでいた伯母といとこ2人が岡町に来てくれて、5人で暮らしていた。
 45年8月9日。五島町の3階の職場で同僚と話していたら、フラッシュのような閃光(せんこう)が走った。爆風でガラスが割れ、棚や机が倒れた。とっさに机の下に潜り込んで、けがはなかった。支店長が「広島に落とされた新型爆弾かもしれない」と話し、急ぎ自宅に帰るよう指示された。
 長崎駅周辺では、ひどいやけどを負った人や逃げ惑う人がたくさんいた。燃えている方角を避け、西坂から立山を通って自宅を目指した。その日は立山の山頂付近の防空壕(ごう)で一夜を過ごした。壕内は負傷者が多くて恐ろしかったので、夜は外に出ていた。燃えている県庁が見えた。
 10日早朝、浦上地区に入った。祈りの場だった浦上天主堂は崩れ、自宅近くの長崎刑務所浦上刑務支所では大きな塀が倒れていた。自宅は焼けて何もかもなくなっていて、身元不明の黒焦げの遺体が転がっていた。
 興善町の伯父と伯母の家に行くと誰もいなかった。行くあてもなく、妹たちを捜し歩いた。5日ほどたって出社すると「諏訪神社の防空壕にいる」という伯父の伝言が残されていた。そこでようやく妹と伯父、いとこの1人と再会した。
 伯母は岡町付近の防空壕で被爆し、爆風で壕の奥に飛ばされながらも一命を取り留めていた。顔をやけどしており、長与の青年学校に運ばれて手当てを受けていた。伯母の顔にわいたうじ虫を箸で取り、湿った傷口にメリケン粉を塗って看病した。もう1人のいとこは行方不明で、とうとう見つからなかった。
 被爆後は食料も衣服もなく、ずっと夏服のままで過ごした。冬になると配給された毛布をほどいて上着に縫い直した。今思えば恥ずかしい格好だった。

<私の願い>

 原爆や戦争を体験した人ならば、あんなつらい思いは二度と経験したくないと思うはずだ。11月に来日する予定の教皇様(ローマ法王フランシスコ)は核兵器廃絶のメッセージを訴えている。思いが世界中に行き渡ってほしい。

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