山本睦子さん(83)
被爆当時9歳 長崎師範学校付属国民学校4年 爆心地から2.5キロの西山町2丁目(当時)で被爆

私の被爆ノート

血で染まるブラウス

2019年09月19日 掲載
山本睦子さん(83) 被爆当時9歳 長崎師範学校付属国民学校4年 爆心地から2.5キロの西山町2丁目(当時)で被爆
 
 あの日はいったん登校したが、空襲警報が出たので下校した。警報は帰宅途中に解除された。自宅に着き、3歳上の兄と玄関でおしゃべりしていると、英彦山の上に飛行機が飛んでいるのが見えた。
 ピカッと光ったかと思うと「ゴォー」とすさまじい音がして爆風が吹き、玄関から家の奥の崖まで飛ばされた。何が起きたのか分からず、兄と一緒に近くの防空壕(ごう)へ走った。家々は崩れ、屋根瓦が散らばっていた。
 「あ、女の子の背中から血が出てる」という声が聞こえた。「むっちゃん、血が出とるよ」と知人に言われて自分のことと気付いた。背中にガラスの破片が突き刺さり、白いブラウスは血で染まっていた。黒い汚れも付いており、飛び散った爆弾の残骸なのかと思ったが、随分後になってから「黒い雨」を浴びたのだと知った。
 三菱重工業長崎造船所の検査官だった父は大波止にいて、頭にけがをして帰ってきた。幸いにも家族は皆無事だった。知人の看護師が消毒液で私の傷口を治療してくれた。
 20日間ほど防空壕の中で生活した。被爆直後から原因不明の貧血になり、目まい、だるさに苦しんだ。髪の毛は3分の1ほどが抜けた。両親は毎日のように農家を訪ね、着物を卵や野菜、鶏のレバーなどと交換した。体調が優れず、食べたくないと拒んでも、口に押し込むようにして食べさせてくれた。おかげで生きることができたと感謝している。
 叔父は爆心地に近い三菱の兵器工場で働いていた。奇跡的に助かり、山を越えて逃げてきたが、1カ月後に息を引き取った。体中の皮膚に見たこともないような斑点が浮かび上がっていた。
 叔父の死から4年後に叔母も亡くなり、いとこの姉妹3人は別々の家に引き取られた。今は皆、広島で暮らしている。ようやく最近、戦時中や戦後について、いとこたちとゆっくりと語り合えるようになった。それぞれが壮絶な苦労をしてきたと知った。
 50代で短歌を始めた。優しかった叔父をしのび、昨年詠んだ一首がある。「紫の斑点まとい逝きし叔父七十余年の我が目に褪(あ)せず」
 どんなに月日がたっても戦争の記憶は消えない。生き永らえることができたが、いつ死ぬか分からないという不安が常につきまとっていた。
 
<私の願い>
 孫やひ孫たちの世代には、自分たちの苦しい経験は絶対にさせたくない。ずっと病院通いでつらかった。今でも大きな音がすると、身震いして気分が悪くなる。あの1発の原子爆弾で、どれだけの人の人生が変わってしまったことか。

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