常盤静子さん(89)
被爆当時15歳 県立高等女学校3年 爆心地から2.3キロの長崎市住吉町で被爆

私の被爆ノート

姉との別れに号泣

2019年10月17日 掲載
常盤静子さん(89) 被爆当時15歳 県立高等女学校3年 爆心地から2.3キロの長崎市住吉町で被爆

 あの日から長い年月が過ぎたが、初めて死と直面した恐ろしく、悲しい記憶は鮮明に残っている。
 当時は県立高等女学校の3年生。学徒動員で三菱長崎兵器製作所住吉トンネル工場の第3機械工場に配属され、魚雷の部品を造っていた。当時の日記には、初めて旋盤を動かした日のことを次のように記している。「自分の造ったものが一日でも早く特攻隊の役に立つようにと念じながらハンドルを握った」。日々の暮らしが戦時色に染められていた時代。「戦争に勝つ」が合言葉だった。機械の金属音が響き、油臭が漂う工場内でみんな黙々と働いていた。
 8月9日も同じように仕事をしていた。作業中、突然強い風が吹いた。電気が消え、辺りは真っ暗になった。「何だ今のは」。一瞬の出来事だったが、違和感があった。まもなく、血だらけの人、洋服がぼろぼろになった人たちがぞろぞろとトンネルの中に入ってきた。何が起きたのか理解できなかったが、聞こえてくる会話から、ただ事ではないと察しがついた。恐怖でトンネルから出られず、ただただおろおろするばかりだった。
 午後6時ごろだろうか。工場内にいた2歳上のいとこたちと、疎開先だった大草(諫早市多良見町)まで帰ることになった。1秒でも早く母の顔が見たい一心で、夜通し歩き続けた。家に着いたのは午前2時ごろ。玄関先で心配そうに待っていた母に飛び付いた。
 私がほっとしたのとは対照的に母の不安は続いていた。城山国民学校の近くで働いていた2歳上の姉が帰っていなかったのだ。数日後、姉は担架に乗せられて家に戻った。腕の皮膚がはがれ、高熱に苦しんでいたが薬はない。15日ごろ、近所の人の漁船に乗せてもらって大村の海軍病院に行った。だが、手の施しようがなく、25日に息を引き取った。
 最期をみとった母は、洗面器に血を吐く姉の背中をさすることしかできなかったという。目の前で苦しむ娘に何もしてあげられなかった母のつらさを考えると胸が痛む。
 私にとってはいつもにこにこして優しい姉だった。死の直前まで私のことを気にかけていたらしく「しー子ちゃんによろしくね」と、か細い声で母に伝えたと聞いた。大好きな姉との早すぎる別れ。棺おけにしがみつき、声を上げて泣いた。

<私の願い>

 何としても核兵器を廃絶してほしい。核は、長い間築き上げてきた平和を一瞬にして壊してしまうもので、どこの国にも持たせてはならない。若い世代の人たちがつらい思いをすることなく、いつまでも笑顔で生活できることを願っている。

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