北里鈴子さん(85)
被爆当時11歳 伊王島国民学校6年 入市被爆

私の被爆ノート

赤い湿疹 死を覚悟

2019年09月05日 掲載
北里鈴子さん(85) 被爆当時11歳 伊王島国民学校6年 入市被爆
 

 当時は伊王島(長崎市)で暮らしていた。島には炭鉱があり、島外からたくさんの人が集まって来ていた。私は10人きょうだいの長女で、親の代わりに弟や妹の子守をさせられたり、兵隊と一緒に防空壕(ごう)の穴を掘らされたりして過ごしていた。
 あの日は、イモをつるして干すやぐらの上で遊んでいたら突然、爆風が吹いて家の板間が「パーン」とめくれ上がった。集まった近所の人たちと一緒に長崎市中心部の方角を見ると、奇妙な白い雲の中から赤い炎が立ち上っていた。煙の立ち込める様子を見た親が「長崎は全滅だ」とつぶやいたのを覚えている。
 4日後、松山町に住んでいた叔母を捜すため、父たちと一緒に手こぎの船で数時間掛けて長崎に渡った。浦上川沿いには焼け焦げた遺体が積んであった。遺体の腫れ上がった足首には、もんぺのゴムがこびり付いていた。
 松山町の近くで、テントを張って暮らしている人から勧められて井戸水を飲んだ。叔母の自宅近くの防空壕の前に渦巻き状の物が6個ぐらいあった。何なのか分からずに蹴っ飛ばすと、灰になってパッと散った。大人たちに聞くと「脳みそが焦げた物だ」と言った。「拝みもせずに申し訳ないことをした」と今も悔やんでいる。結局、叔母は見つからなかった。防空壕の近くで死んだらしく、「骨で分かった」と言って父が遺骨をバケツに入れた。
 帰る途中、塩が山のように積んである場所があり、人が群がっていた。当時は塩不足で、放置されていた塩をわれ先にとみんなが拾っていた。私も無我夢中で拾った。島にたどり着いたのが何時だったのかは覚えていない。
 帰宅すると、井戸水を飲んだせいなのか、体に赤い湿疹が出た。死ぬ覚悟をしたが、柿酢が効くという話を聞き、毎日飲んでいるとしばらくして治った。それ以降、健康には自信があったはずなのに、すぐに疲れるようになった。友達からは「顔色が悪い」とよく言われた。
 国民学校を卒業後、長崎純心高等女学校に入学した。当時は大村市の海軍航空廠(しょう)工員宿舎跡が仮校舎だった。だが、きょうだいを養うために2年で退学して島に戻った。その後は県外で就職、結婚して生活した。長い間、被爆者健康手帳の存在を知らず、1970年になってようやく取得した。

<私の願い>

 戦時中は学校に着いても空襲警報ですぐに帰宅させられていた。タコつぼ壕の真上を戦闘機が飛んで行き、機銃掃射を浴びそうになったこともある。玉音放送は友達の家で聞いた。個人ではどうしようもないが、戦争はない方がいい。

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