宮崎昌子さん(90)
被爆当時16歳 常清高等実践女学校1年 爆心地から1.2キロの長崎市茂里町で被爆

私の被爆ノート

やけどの傷にうじ虫

2019年08月22日 掲載
宮崎昌子さん(90) 被爆当時16歳 常清高等実践女学校1年 爆心地から1.2キロの長崎市茂里町で被爆
 
 当時は食料が不足し、カボチャの葉やサツマイモの茎まで食べていた。勉強どころではなく、学徒報国隊として長崎市茂里町の三菱長崎製鋼所第4工場の資材課で毎日のように働いていた。
 あの日は職場にいた。机から立ち上がろうとした時、「ドーン」という爆発音とともに木造2階建ての建物がぺしゃんこに崩れ、柱の下敷きになった。うつぶせのまま動けず、手の近くにあったバケツをたたいて鳴らし、助けを求めた。柱から飛び出した五寸くぎが右腕に刺さっており、男性がくぎを抜きながら柱を取り除いてくれた。まゆの上にはインク瓶の破片が突き刺さっていた。
 床面のコンクリートが熱くてはだしで歩けず、板を敷きながら工場を出て、近くの川に逃げ込んで身を隠した。潮が満ちてきて岸によじ登ると、目の前に倒れそうな馬がいて、路面電車から炎が上がっていた。
 強い眠気がして少し横になった。起き上がって歩き出すと、大やけどをして生死も分からない人たちが、あちこちに横たわっていた。3人から「水をください」と足をつかまれたが、振りほどいて逃げた。井樋の口町(現在の宝町)付近の防空壕(ごう)に逃げ込むと、近くの見張り台が入り口の辺りに焼け落ちてきたので、別の防空壕に逃げた。中には青い服の囚人が大勢いて、怖くて外に出た。
 夕方に稲佐町の自宅に帰った。母ときょうだい3人の家族は皆無事だった。母は私を捜しに出掛けていたが、戻って来ると「死んだと聞いた」と驚き、泣いて喜んだ。
 翌日、憲兵隊が救護所の新興善国民学校に担架で運んでくれた。背中が真っ赤に焼けただれた男性や頭がおかしくなって叫んでいる少年もいた。運動場では、真っ黒に焼けて男女の区別もつかない死体を山積みにして焼いていた。あの臭いは忘れない。
 体のあちこちに32カ所の傷があった。太もものやけどの傷にうじ虫がわいたが、医者から「化膿(かのう)した皮膚を食べてくれるから治療になる」と言われた。髪の毛は全部抜けてしまった。
 終戦後は2年ほど親戚が運営する病院で入院生活を送った。左脚のくるぶしが痛くて歩けず、病気がちだった。回復して20歳で結婚したが、差別による破談が恐くて、原爆に遭ったことを隠していた。子ども2人を産んだ後に夫に打ち明けた。
<私の願い>

 あれが新型爆弾と知ったのは投下から数日後だった。1発で町を焼け野原にし、地獄の苦しみを与える核兵器を使うことは許されない。戦争が憎い。二度と戦争をしてはならない。今の世界は、おかしな空気が漂い、平和とは思えない。

ページ上部へ