平湯 輝夫
平湯 輝夫(80)
平湯輝夫さん(80)
爆心地から2・5キロの旭町の自宅で被爆
=南島原市加津佐町=

私の被爆ノート

防空壕の外 真っ赤な空

2011年4月21日 掲載
平湯 輝夫
平湯 輝夫(80) 平湯輝夫さん(80)
爆心地から2・5キロの旭町の自宅で被爆
=南島原市加津佐町=

当時14歳で旧制中学2年生。学徒動員で工員の研修中だったが、数日前から体調を崩し、叔母と2人で住んでいた自宅で横になっていた。11時ごろだったと思う。空襲警報が解除され、叔母が部屋の雨戸を開けようとした瞬間、外がピカっと光った。叔母が後ろに倒れこんだ。

家から飛び出し、500メートル離れた町内会の防空壕(ごう)に2人で夢中で逃げ込んだ。外の様子は覚えていない。その時は大きな爆弾が落ちたのだろうぐらいにしか考えず、長崎一帯がやられたとは思いもしなかった。

体調がすぐれず、Yの字型をした横穴式の壕でも横になっていた。中は、やけどやけがをした人でいっぱいになり、次々と人が死んでいった。二つ年下の子が亡くなって、その家族が泣いていた。長崎港内で泳いでいた人たちは、浦上方向を向いていた人は体の前半分を、背を向けていた人は後ろ半分をやけどしたという話も聞いた。

夜になり、起き上がって壕の中から外をのぞき見ると、港を隔てた向こう側の町は火事が広がり、黒い煙が上がっていた。空まで真っ赤だった。

投下の翌日か翌々日、罹災(りさい)列車が出ると聞き、未明から叔母と2人、駅へ歩いた。一本釣り漁師をしていた父の住む加津佐町に向かうために、まだ暗いうちに列車に乗った。だが、なかなか進まず、市内で日の出を迎えた。汽車から見えた浦上川には、黒焦げの死体が並んでいたが、不思議と怖いとは思わなかった。戦時中で普通の精神状態でもなかっただろうし、体調を崩していて冷静な判断もできなかったのだろう。

諫早に向かう途中、汽車には負傷者が乗ってきた。客車だけではなく、後ろの貨車にも次々と。道ノ尾駅では倒れて死んでいる牛も見た。一昼夜かかってようやく加津佐町にたどり着いた。その後、長崎には、もう戻らなかった。

<私の願い>

人はずっと戦争をしている。人に欲がある以上、戦争は絶えないのかなとも思うが、考え方がどうであれ、戦争だけはしたらいけない。なくしてほしい。原発事故が起きたが、あの原爆の被害を考えれば、二重、三重それ以上の対策をとっておくべきだった。被爆者として原発は認められない。

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