高田 サダ
高田 サダ(84)
高田サダさん(84)
爆心地から0.7キロの長崎市坂本町で被爆
=長崎市鶴見台1丁目=

私の被爆ノート

「これが本当の地獄」

2011年2月3日 掲載
高田 サダ
高田 サダ(84) 高田サダさん(84)
爆心地から0.7キロの長崎市坂本町で被爆
=長崎市鶴見台1丁目=

当時18歳。長崎医科大付属医院(現長崎大学病院)で助産師、看護師として働いていた。朝から仕事だったが約1週間前にもひどい空襲があったので、離れて暮らしていた両親に無事を知らせようと、1階の急患受け付けの部屋ではがきを書いていた。御影石でできた机に向かい、「お変わりありませんか-」と書いた時だった。

ブーンブーンと遠くから飛行機の飛んでくる爆音が聞こえてきた。廊下で患者と話していた婦長が「あっ、飛行機」と言って外に出た瞬間。目を射るような閃光(せんこう)が走った。すぐに机の下に潜り込んだが、体が爆風で飛ばされ、壁にたたきつけられた。間もなく、部屋の中に焦げたような臭いが漂った。

どのくらいの時間がたっただろうか。しばらくすると、周囲からうめき声や泣き声が聞こえてきた。私は鉄筋の建物の中にいたので助かったが、屋根のない廊下にいた婦長たちは、崩れた壁などの下敷きになって助けてあげられなかった。あちこちから火の手が上がっていた。何もできずに、その場にぼーっと立っていたら後輩の看護師が「はよ逃げようで」と声を掛けてきたので、はだしのまま逃げた。気が付けば右腕をけがしていた。

翌朝、病院の防空壕(ごう)に医療品が置いてあったことを思い出して取りに行った。途中で男物の靴を拾って焼け野原になった街を歩いた。薬や包帯をあちこちの救護所に配って歩いた。その途中には、負傷者や黒焦げの死体が転がり、足の踏み場もないような状態だった。「これが本当の地獄だ」と思った。悲しかったが涙は出なかった。

あの日、母親とみられる女性が亡くなっている横で、赤ちゃんが泣いていた。「看護婦さん、助けてください」。負傷者から声を掛けられたが、自分には何もできなかった。今も忘れることができない。

【編注】「高田サダさん」の高は口が目の上と下の横棒なし

<私の願い>

戦争でたくさんの親友を亡くした。思い出すと涙が出るので、今までほとんど話したことはなかったが、悲惨な体験を若い人たちに伝えなければと思った。私は原爆で「この世の地獄」を見た。もうこんな思いはさせたくない。みんなが助け合って戦争のない平和な世の中であってほしい。

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