原 和江
原 和江(83)
原和江さん(83)
爆心地から1・2キロの茂里町で被爆
=長崎市西山3丁目=

私の被爆ノート

黒焦げになった人や馬

2011年1月27日 掲載
原 和江
原 和江(83) 原和江さん(83)
爆心地から1・2キロの茂里町で被爆
=長崎市西山3丁目=

5人きょうだいの2番目で、当時18歳。姉はすでに嫁いでいた。長崎市茂里町の三菱長崎兵器製作所で、工員の出退管理をする事務職をしていた。

午前11時前、事務所の机で作業していると、普段は聞こえない飛行機の音がして、あわてて机の下に潜り込んだ。そのときに右ひざを強く床に打ち付けてしまい、今でも痛みが続いている。そして、太陽よりもっと強い光がパーッと差し込み、ガーンという衝撃音があった。窓のすぐそばだったので、ガラスの破片が尻に刺さった。

10分くらいたって事務所の外に出てみると、馬車が倒れていて、真っ黒になった馬がヒーヒー鳴いてかわいそうだった。馬を引いていた人も黒焦げで亡くなっていた。

近くの防空壕(ごう)に行ったが、人でいっぱいで、あきらめて竹の久保町の自宅に向かった。途中、黒いカーテンを見つけて、血が出ていた右ひざに巻き付けた。自宅近くは火の勢いが激しくて近寄れず、浦上川に入ったりもした。黒焦げで人間とも思えない人たちでいっぱい。学校が近かったので学生だろうが、恐ろしかった。

助けを求める人から足をつかまれたりしてなかなか進めない。道ノ尾駅まで歩くと生きている人がいて、救援列車に乗った。大村の病院で治療を1週間くらい受けた。部屋には私と同じ程度のけが人が20人くらい。爆弾を落とされたのが悔しくて泣きながら寝た。

19日、親類がいる福田村柿泊郷(当時)へ行き、家族と再会した。「よく生きとったね」とお互いに泣いて喜んだ。弟は全身やけどですぐ亡くなり、末の妹は家の下敷きになって即死だったらしい。私も死んだと思っていたようで、骨箱が用意されていた。母と上の妹は寝ていて、ガラスが全身に刺さっていた。私に会えて安心したのか、2人ともその日のうちに亡くなった。

【編注】「原和江さん」の原は白が日

<私の願い>

平和が一番。でも外国では今も戦争をしていて、全然平和じゃない。私は100歳まで生きて、経験したことを下の世代へ伝えたい。さらに下へ次々に伝え、みんな朗らかに過ごしてほしい。生き地獄を二度と繰り返さないように、戦争がない世界になるように。

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