立石 伸夫
立石 伸夫(88)
立石 伸夫さん(88)
大村陸軍病院で被爆者を救護し被爆
=佐世保市吉井町=

私の被爆ノート

まるで「地獄絵図」

2009年12月17日 掲載
立石 伸夫
立石 伸夫(88) 立石 伸夫さん(88)
大村陸軍病院で被爆者を救護し被爆
=佐世保市吉井町=

当時、23歳。大村陸軍病院(現・大村市西大村本町)の検査室で入隊する兵士たちの細菌検査などを担当していた。

8月9日の勤務中、空襲警報のけたたましい音が鳴り響いた。「なんじゃろか」と窓の外を眺めた。その直後だった。「ピカーッ」と青白い閃光(せんこう)が走った。「ゴーッ」。猛烈なごう音に続き、強い爆風。病院のガラス窓が「パリン」と割れた。空には真っ白い煙がモクモクと立ち上った。同僚が「あれはアメリカの新型爆弾じゃ」と叫んでいた。

数時間後、上司から「大村駅に負傷者ば迎えに行け」と命じられた。救援トラックに飛び乗り、駅へ。午後8時ごろだったか。最初の列車が駅に到着。中には焼けただれた人が足の踏み場もないほど横たわっていた。「マサオ!」「母ちゃん」「無事だったか」。互いの安否を確認し、抱擁する親子もいれば、肉親を捜し続ける人もいた。

駅から病院へと負傷者をピストン輸送。まるで病院は「地獄絵図」のようだった。ガラスが全身に突き刺さった人、やけどで皮膚がただれ、元の顔が判別できない人、「水をくれ」とうめく人…。ある男性の腕の鮮血を油紙でぬぐうと皮膚がべっとりと手に付いた。水もあげたかったが「水を与えると死ぬ」と聞かされていたため与えなかった。今思えば、水を飲ませてやればよかった。

その後、負傷者の輸送と救護活動を5日間、不眠不休で続けた。何日かたつと、負傷者の傷口や遺体からうじ虫がわいてきた。火葬場まで遺体の搬送もした。腐臭が服にまとわりついた。洗っても、洗ってもにおいは取れなかった。

その年の10月、古里の吉井町に帰った。シベリアの戦地に赴いた二つ年上の兄も無事生還した。両親やきょうだいで抱き合い喜んだ。今、思うのは、大村や広島の陸軍病院で共に働いていた仲間の安否。まだ、生きているのだろうか。
(江迎)

<私の願い>
「戦争反対」とみんなが言う。だが、現実には世界中のどこかで絶えず戦争は起きている。戦争は家族や古里を失う。殺し合いに良いことはない。戦争の惨状は体験した者にしか分からない。だからこそ、子や孫らのために、戦争のない平和な時代が未来永劫(えいごう)続くよう願い続けたい。

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