正林 克記
正林 克記(70)
正林 克記さん(70)
爆心地から1.5キロの家野町で被爆
=長崎市愛宕1丁目=

私の被爆ノート

妹とともに立ちすくむ

2009年12月10日 掲載
正林 克記
正林 克記(70) 正林 克記さん(70)
爆心地から1.5キロの家野町で被爆
=長崎市愛宕1丁目=

「あの日」、私は6歳で大阪から長崎に引っ越してきたばかりだった。飼っていた犬と遊んでいた時に空襲警報が鳴り、母や妹とともに家の地下にあった防空壕(ごう)へ逃げ込んだ。

警報が解除され、一つ年上の友達からセミ捕りに誘われた。「行っては駄目」と言う母に頼み込んで、妹も連れて近所の小高い丘へ向かった。

自分がちょうど抱えられるくらいの木にセミを見つけ、妹に虫かごを手渡し網を伸ばした瞬間、爆音が聞こえた。

友達は慌てて帰ったが、私は「危ない」と思い、立ちすくんで泣いている妹を連れ、近くの古びた小屋に逃げ込んだ。その時、真っ白な閃光(せんこう)と熱線、爆風、爆音が襲ってきた。

小屋が崩れ、灰や板切れ、小枝、幹が飛び交う中、すべてが見えなくなった。そのあと、木片の下敷きになっていた妹を引っ張り出し、背負って歩いた。血だらけの妹は「お母さん」と泣きわめいていた。

自宅の方角を見てみると、すべてが真っ赤。どこに何があるか分からなかった。立ちすくんでいると、丘の下から焼けただれ、人と判別できないほど顔が崩れた人たちがあえぎながらやってきた。自分のそばで倒れてしまう人もおり、私はしばらくの間、丘を下れずにいた。

母を捜して、女性を見るたびに「お母さん」と声をかけて歩き回った。腹部に竹片が突き刺さっているのも分からずに歩いていた私に、通り掛かった人から「この子らはもう駄目だ」と言われ、見放された。

妹は母親を、私は父親を求めて「助けて」と泣き叫んだ。気が遠くなりかけたその時、どこかの男性に助けられ、防空壕に運ばれた。

そこでは、戸板に乗せられ次々に亡くなっていく人たちのそばに私も寝せられていた。朝方、血だらけになった母親が捜しに来てくれた。「よく生きていてくれたね」。そう言って私にほおずりしてくれた母のにおいで、ようやく安心したことを覚えている。
<私の願い>
オバマ米大統領の演説で、原爆を落とした国と落とされた国が「核兵器は人類を滅ぼす最大の脅威」という認識を共有できるようになったと思う。他国の核に不安を感じ、そのため核を保有する国に平和はあり得ない。被爆65周年を迎える来年は、この「不安」に立ち向かう年であると思う。

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