長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

頭蓋骨放置を後悔

2018年06月14日 掲載
村田 喜八朗(86) 被爆当時14歳 大浦国民学校高等科2年生 爆心地から3.8キロの長崎市十人町で被爆

 母親ときょうだいの6人家族。毎朝、千馬町(現出島町)の電停から電車に乗って、動員先だった茂里町の三菱長崎製鋼所に通っていた。あの日は、同じ製鋼所に勤めていた4歳上の兄と停留所に並んでいる途中に、警戒警報が鳴ったため、家に引き返した。普段仕事を休むことのない真面目な兄も「帰る」と言ったので、一緒だった。もし行っていれば二人とも命はなかっただろう。
 それから家に帰り、近くの民家の裏に、近所のおじさんたちと防空壕(ごう)を掘っていた時だった。ふと空を見上げると、キラキラと光りながら飛ぶB29の近くで、落下傘が浮いているのが見えた。すぐに防空壕に入ろうと、中の階段を駆け降りている最中に、ピカッと光った。後ろを振り返ると青黄色い光が見えた。気が付いた時には防空壕の中でひっくり返っていた。
 30分後には、自宅にいた母親や兄らと壕内で再会。上半身裸だったので服を取りに行こうと外に出た。すると周囲は粉じんに覆われ、足元を見るのがやっとだった。カビの臭いもした。自宅にたどり着くと、瓦や家の中のものは吹き飛ばされていた。一体何が起きたのか。何も分からなかった。
 市内に働きに出ていた3歳上の兄を含め、家族は全員無事だった。11日まで防空壕で過ごし、ゆでたジャガイモに塩をつけて食べた。ある晩外に出ると、県庁のドームが真っ赤に燃えていたのを覚えている。
 翌年3月に学校を卒業し、長崎市内にあった電気工事会社に就職。その年の夏、現在の出島町から、三菱長崎兵器製作所の大橋工場があった辺りにまで電話線を引くための電柱を建てることになり、穴を掘る業務に従事した。
 その途中、現在の松山町の交差点を過ぎた辺りで、大人とみられる頭蓋骨一つが地面の上にあるのを見つけた。持ち上げると全身が一緒に埋まっていたようで、肩甲骨の辺りからは肉も見えた。今思えば、原爆で命を落とした方だったのだろう。その光景は今でも鮮明に覚えている。
 当時はまだ年若く、日常に追われてその日を生きることに精いっぱいだった。感覚もまひしていたのだと思う。それ故に、思いを十分にはせることができず、放置してしまったことを今でも悔いている。その後、どうなったかは分からない。ただ、どなたかが供養してくれたことを願うばかりだ。

◎私の願い

 世界が平和になるには、核兵器をなくすことが必要だ。そして国同士が裸になって話し合える環境をつくらなければならない。日本人は昔から勤勉で、思いやりがある。その国民性を生かして、ぜひ国同士をつなぐ役割を果たしてほしい。

ページ上部へ