三田村 シズ子(76)
被爆当時3歳 爆心地から5キロの福田村(当時)で被爆

私の被爆ノート

見えない被害続く

2018年05月31日 掲載
三田村 シズ子(76) 被爆当時3歳 爆心地から5キロの福田村(当時)で被爆

 ピカッと瞬く灰色の閃光(せんこう)が視界に飛び込んできた。山の向こうで何が起こっているかなんて、当時3歳の私が知るよしもない。久しぶりに口にする白米に夢中だった。「何ばもたもたしよっとね」。声を荒らげる10歳の次女に背負われ、自宅から近くの防空壕(ごう)に逃げ込んだ。私の長崎原爆当日の記憶はこれだけだ。
 原爆の被害は何も目に見える惨状だけではない。幼子が知らないうちに受けた放射線の影響は被爆から73年が経過しても続く。自らの体内を3度むしばんだがんは、まな娘の命も奪った。核が憎い。二度と被害者が生まれないよう、家族から聞き取った被爆状況を基に語り部をしている。
 出征した父を除く家族6人と一緒に西彼杵郡福田村(当時)の自宅で平穏な日々を送っていた。1945年8月9日、朝の空襲警報のサイレンが解かれ防空壕から帰宅。母は1歳の次男を連れて近所の叔父宅へ、12歳の長女は友人の家に遊びに出掛けた。
 家に残ったきょうだい3人と私は縁側で食事を取っていた。カボチャや芋の代用食が続いた食卓に並ぶ久しぶりの白米。それがおいしくて夢中でかきこんでいた時に、稲佐山の向こうから強い光が放たれた。たまたま台所にいた6歳の長男は爆風で割れた窓ガラスの破片が頭に刺さって出血、次女は、庭先で泡を吹く飼い猫を見て動揺していたという。母の教えに従い、4人で慌てて防空壕に避難。そこで再会した家族はみな生きていた。
 数日後には体に異変が出始めた。下痢や発熱が度々起こり、週に何度も病院に通う生活が小学校の低学年まで続いた。原爆症という言葉がない時代。医者からは飲み薬を飲んで安静にするよう言われ続けた。病弱な体も落ち着き2児の母となっていた39歳の時に最初のがんが発症。手術で助かったが、放射線の影響におびえる生活が始まった。あの日一緒に実家で被爆したきょうだい3人もがんになった。
 3度目を患った同時期に娘にもがんが見つかった。2010年6月、入院する愛知の病院に向かう列車の中で訃報を聞いた。まだ39歳だった。生前の娘が、放射線の遺伝的影響の不安を友人に告げていたことを聞かされた。涙が止まらず、被爆した自らの体を責めた。「この子のためにも核の恐ろしさを伝えなくては」。11年3月の東京電力福島第1原発事故は、その思いをより強くした。

◎私の願い

 被爆者それぞれに貴重な体験をして苦労がある。私の場合は体に刻まれた放射線の被害が一番大きい。この体験から核の脅威を子どもたちに伝えていく。戦争が起きないこと、核兵器が使われないことだけを平和と考えるのではなく、人を大切に思うような「心の平和」を培ってもらいたい。

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