山下一郎さん(84)
被爆当時11歳 本山国民学校6年 入市被爆

私の被爆ノート

義兄の遺体に火を

2018年06月28日 掲載
山下一郎さん(84) 被爆当時11歳 本山国民学校6年 入市被爆

 11人きょうだいの末っ子。兄2人は中国とニューギニアで戦死した。旧南松浦郡本山村(現在の五島市)で、両親と姉2人と暮らしていた。
 8月9日、本山村役場の職員が家に来た。姉が嫁いでいる長崎市内に、大きな爆弾が落とされたという知らせだ。「今夜、役場で漁船を準備しますので、お米や野菜、衣類などを持って長崎へすぐ行ってください」。荷物をまとめ、父と漁船に乗り込んだ。船はいくつも用意され、一隻に40人ほど乗っていた。父は「困ったもんだな。どうなっているのか」と不安げだった。
 翌朝まだ薄暗いころ、長崎港に到着。あちらこちらに死体があり、鼻を突くひどいにおいが漂っていた。
 急いで姉夫婦が暮らしていた東小島へ向かった。姉も0歳の甥(おい)も無事だったが、茂里町の三菱長崎製鋼所で働いていた義兄がまだ戻っていないという。町内会の大人たちと捜しに向かったが、浦上方面は危険だからと先へ進めず、その日は長崎駅辺りまでの捜索がやっとだった。
 翌日、再び義兄を捜し歩いた。暑かったので少し水を浴びようと浦上川へ行くと、川の端にいくつもの死体が積み重なっていてぞっとした。「こんな状況では、もう生きていないかも」。結局手掛かりも見つからなかった。途方に暮れて帰ると、どうやってたどり着いたのか、義兄が帰ってきていた。
 全身に大やけどを負い、体中の皮膚がただれていた。「痛い、痛い」。布団に皮膚がくっつき、何度も取り換えた。苦しむ義兄の皮膚を、泣きながらタオルでぬぐうことしかできなかった。姉もずっと泣いていた。
 次の日の晩、義兄は息を引き取った。大人たちと近くの墓へ遺体を運び、ほかの遺体と並べて火葬した。父や姉は「見たくない」と言ったので、自分が火を付けた。ずっとは見ていられず、手を合わせ、その場を離れた。背が高く酒好きで、いつも陽気で優しかった義兄は、両手に納まるぐらいの骨になった。終戦後、家族で本山村へ帰った。
 それから39年後。長崎市役所の関係者から電話があった。姉が書いた被爆当時の報告書の中に、父と自分が長崎に来て義兄を捜したことが書いてあったので、事実であれば被爆者健康手帳が交付されるという。1984年11月17日、手帳が交付された。頭が下がる思いでいただいた。

<私の願い>

 柴犬の世話や菊栽培などを生きがいに、妻と元気に暮らしている。辞書で「平和」を引くと「争いがなく穏やかなこと」と書いてある。この「争いがなく穏やかな」心が、世界の心になってほしい。世界中から争いがなくなってほしい。

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