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戦争の記憶 2024 ナガサキ 松永文則さん(86)今も耳から離れぬ軍歌

2024/06/17 掲載

 「勝って来るぞと勇ましく ちかって故郷を出たからは 手柄たてずに死なれよか 進軍ラッパ聴くたびに まぶたに浮かぶ旗の波…」

飢えと混乱の日々過ごす

 今も耳から離れない軍歌「露営(ろえい)の歌」。召集令状「赤紙」が届いた在郷軍人を近くの駅まで親戚一同で見送りに行った。皆で歌って鼓舞した。男たちは戦場へ消えていった。
 戦時中は不気味な空襲警報のサイレンにおびえる日々。防空ずきんをかぶり防空壕(ごう)へ逃げ込んだ。米軍の大型爆撃機「B29」が銀メッキをキラキラ光らせ飛んでいた。「ババババ、バーン」。戦闘機からの機銃掃射から身を守るため、側溝に飛び込んだ。
 時期的には国民学校の低学年のころ。「欲しがりません勝つまでは」の号令の下、貧しさに耐えた。どんな小さな鉛筆も、どんな小さな紙片も無駄にはしなかった。兵器を製造するための金属類も枯渇。地域の半鐘の柱や鉄橋の手すりが消えた。本土決戦に備えた竹やりの訓練も始まった。
 1945年8月9日、朝から仲間とセミを取っていた。一瞬、西の空が赤く染まった。「小浜温泉で火事ばい」。大人たちが騒いでいた。その2日後、長崎にピカドン(原爆)が落ちたと聞かされた。
 8月15日は、真夏の太陽が照り付ける暑い日だった。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」。古ぼけたラジオの前で正午の玉音放送を聞いた。「日本が戦争に負けた」。母親が泣いていた。悲嘆に暮れる大人とは対照的に「あーよかった。もう怖か目に遭わんでよか」とホッとした。
 終戦直後、焦土と化した日本は、食料と物資の不足に悩まされた。農村地帯の島原半島には連日、大きいリュックを背負った買い出しの人々がはるばる長崎からやってきた。
 農家では「食べられるものなら何でもください」と懇願する姿も。庭先に放置されている種芋を「分けてください」とリュックに詰め込む母親もいた。食料が十分に手に入らず、悲しそうな表情で帰っていく女性の姿が、今も脳裏から離れない。
 人々は、飢えと混乱の日々を夢中で過ごした。短くなった裾に布を継ぎ足したズボンをはいて学校へ通った。母親の最大の思いやりに感謝した。人々の生活は貧しかったが、徐々に将来に夢や希望が持てるようになるにつれ、表情は明るくなった。
 戦後79年、戦争は遠い過去になった。日本では戦争を知らない世代が大半を占めた。その一方、ロシアのウクライナ侵攻が続き、パレスチナ自治区ガザではイスラエルとイスラム組織ハマスが争う。世界中で戦渦が広がっている。戦争は皆が不幸になる。一刻も早く平和な世の中が訪れてほしい、と願う。