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戦争の記憶 2023 森美恵子さん(81)「お父さんと呼んでみたかった」

2023/08/16 掲載

 生まれた娘と一度も会うことができず、戦場に散った父。愛する夫を失い、わが子とも引き離された母。80年前に戦地から届いたはがきから伝わる親の愛情。「戦争がなかったら、どういう人生だったか」。長崎市の森(旧姓上戸)美恵子さん(81)は戦争によって引き裂かれた家族の幸せを思いながら、両親への感謝の気持ちを強くする。

 

引き裂かれた家族の幸せ

 「美恵子もお父さんの留守中二つ之(の)年を迎えたかな 誕生日は俺も祝してやった 最早(もはや)ちょこちょこなすことだろうな」。美恵子さんが大切に持っている約50枚のはがき。父の恵さんが戦地から母の里代さんに送ったものだ。

 恵さんは旧北高戸石村(現長崎市)で農家の長男として生まれ、幼なじみの里代さんと結婚。第2次大戦中の1941年秋、大村歩兵第146連隊の一員として出征した。美恵子さんが生まれる約2カ月前のことだった。
 ビルマ(現ミャンマー)戦線から送られてきたはがきに記された日付は43年4月から44年8月。初めて授かったわが子の写真を机に飾り、「子供時の教育が一番大事だ」と妻に託し、夢に美恵子さんが出てきたと、つづることもあった。
 だが恵さんは44年11月、ビルマ国境の中国雲南省で戦死。30歳だった。幼かった美恵子さんの記憶にあるのは、白い布をかぶせた四角い箱を持った人たちがトラックの荷台から降りてくる光景だけだ。後に聞いた話では、恵さんは胸を一撃されて亡くなったそうだ。中国軍と交戦中だったとみられる。ドラム缶で火葬され、遺骨は戻らず、箱の中には土しか入ってなかったという。

 里代さんは終戦後、実家に戻り、再婚。美恵子さんは父方の祖父母や叔父夫婦に育てられた。4歳だった美恵子さんに母の記憶はほぼない。
 里代さんとは親族の葬儀などで顔を合わせることはあったが、「親戚のおばさんみたい」な関係だった。美恵子さんは24歳の時、夫一朗さん=2002年に60歳で死去=と結婚。叔父の勧めで式に里代さんを招待したことをきっかけに、会うようになった。
 里代さんから初めて聞く当時の状況。恵さんの死に打ちひしがれる中、親族から実家に戻るよう強く促され、泣く泣く応じたこと、実家に戻る前の日に訪れた友人宅で涙が止まらなかったこと-。再婚してからも小学校に通う美恵子さんを遠くから見守り、誰にも知らせず、恵さんの墓参りを続けていた。
 里代さんは再婚相手との間に4人の子がいて「きょうだいだから、仲良くしなさい」と言い、家族ぐるみの付き合いが始まった。里代さんからは優しかった恵さんとの思い出や、戦地とはがきでやりとりをしていたことも聞いた。里代さんが02年に84歳でこの世を去り、遺族が遺品を整理していて、はがきが出てきた。
 目を通し、両親の思いに触れた美恵子さん。複雑な感情が入り交じり、涙があふれた。里代さんが亡くなった年齢に近づき、両親らの苦労が身に染みて分かり、感謝の気持ちも強まった。「父も母も私も戦争の犠牲者ですよね。お父さんと呼んでみたかった」。思いがこもるはがきを切なそうに、いとおしそうに見詰めた。