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戦争の記憶 2023 津田典子さん(87)「女、子ども狙われた」

2023/08/15 掲載

 戦争が終わった1945年8月15日は、旧満州(現在の中国東北部)にいた多くの日本人にとって苦難の始まりの日だった。佐世保市の津田典子さん(87)は、旧満州の大連で生まれ育った。穏やかだった暮らしは、終戦で一変。ソ連兵らによる略奪や女性への乱暴が横行した。「女、子どもが狙われた」-。戦争がもたらした女性故の苦悩を思い返し、涙が頬を伝った。

 

ソ連兵ら略奪、乱暴 終戦で一変した平穏な日常

 父は大連市役所で働き、3歳下の妹と母の4人で暮らしていた。極寒の大連では学校のグラウンドに水をまくと、朝には天然のリンクになった。スケートをしてよく遊んだ。大連に暮らす親戚とも遊びに出かけ「裕福ではなかったけど、幸せだった」。
 ただ、44年秋ごろ、父が肺結核を患った。一家の収入は激減。母は着物を売るなどして家族を支えた。
 現地の新聞で「長崎に爆弾が落とされた」と知った。原爆のことだった。ソ連軍は日ソ中立条約を破棄し、旧満州に攻めこんできた。
 45年8月15日は、雲一つない青空が広がっていたことを覚えている。自宅のラジオで玉音放送を聞いたが、「何を言っているのか分からなかった」。当時9歳。平穏な日常は激変していく。
 8月下旬、ソ連兵が戦車に乗って大連に進駐。まさに「ロシアのウクライナ侵攻の様子と同じ」だった。「家を渡せ」と言って住人を追い出し、略奪を繰り返す。いくつもの奪った腕時計を肘上まで着けている兵もいた。
 ある日、母と2人で家にいると、ソ連兵の男が近づいてくるのに気づいた。男は土足で家に入ってきた。母は津田さんを連れて家を飛び出し、近くにある病院の石炭置き場に逃げ込んだ。
 男は2階まで上がり、床に伏せていた父を見て去ったという。「女性への乱暴はしょっちゅうだった。『ここに女がいるに違いない』って」。女と分からないように、頭髪は短く刈り上げ、ズボンをはいた。やさしいソ連兵もいたが、両親からは「1人で外に出ないように」と厳しく言われていた。
 虐げられていた中国人の不満も爆発した。きつくあたっていた日本の憲兵らは暴行に遭い「殺された人もいた」と聞いた。
 一家の金は底をつき、食糧も石炭も買えず飢えと寒さに耐えるしかなかった。妹と一緒にたばこなどを売りに出たり、家具や家の壁をはがして燃やし、暖をとったりして命をつないだ。2、3日に1度、配給はあったが、汁に豆のかすが数個浮いているだけ。空腹はつらかった。栄養失調で「骨と皮」になった。
 終戦から2年。やっと佐世保の浦頭行きの引き揚げ船に乗れた。

 ♪さらば古里、古里さらば

 離れて行く古里・大連を見て、学校で習った歌を口ずさんだ。陸からソ連兵が船に手を振っていた。「やっと日本に帰れる」。まだ見ぬ祖国を思い、身体が軽くなった。

父の死、母子家庭差別 帰国後も続いた苦難

 終戦から2年間引き揚げ船を待ち、無事、佐世保・浦頭にたどり着いた津田典子さん(87)。しかし帰国後も、父の死、いじめ、母子家庭への差別と、さまざまな苦難が待ち受けていた。
 大連では、ほかの地域から逃げてきた日本人が集団で学校に身を寄せていた。その校庭には、チフスなどで亡くなった遺体が積み重なっていた。1947年3月、大連から引き揚げ船に家族4人で乗り込み、3日かけて佐世保・浦頭に到着した。佐世保に着くと、港の入り口付近にあった緑が目に飛び込んできた。「美しさがいまも忘れられない」。日本にたどりついた感動をかみしめた。
 肺結核を患っていた父は、帰国から3カ月後に亡くなった。母は女手一つで娘2人を育てることに。実家のある大村市に移り、病院の医療事務などをして懸命に働いた。「高校までは出してあげる」と言ってくれた。
 引き揚げ者ゆえの苦労も味わった。市内の中学校に通ったが、1年の頃はいじめにあった。大連で標準語を聞いて育ったため、「言葉がおかしい」と言われ標的になった。
 高校は商業科に進学。3年生で金融系の企業を受けると、担任が焦った様子で言った。「『母子家庭はだめ。金銭にルーズだからいらん』と(企業側から)言われた。進路変更せんといかんぞ」。母子家庭の友人もまた、同じ扱いを受けた。そんな時代だった。
 「このままでは就職できない」。公立の短大への進学に切り替え、毎晩猛勉強。大連で寒さに苦労したが、大村でも暖房器具はなく、軍手をして布団をかぶりながら机に向かった。短大を出て、中学校の家庭科の教員に。10年ほどたったころから、戦中戦後の体験を生徒らに話すようになった。
 「実は先生、中国で生まれたんです」
 最初は、ぽかーんとした表情だった生徒たちだが、話をしていくうちに真剣なまなざしに変わった。「平和は互いを大切にすること。もう二度と戦争は起こってはいけない」
 40年以上前から基地の町・佐世保に暮らす。近ごろは、日本の安全保障を巡る動きに憤りを覚えている。日本政府の反撃能力(敵基地攻撃能力)保有や防衛費増額など「戦前と同じようになっている。どんどんおかしな方向に進んでいる」と声を震わせる。いまだに性別の違いによって社会でも格差があり、女性への偏見も残っている。「子どもたちに、私が味わった目に遭わせたくない。(差別も)戦争もない社会になってほしい」と願っている。