焼け残った文書庫の中で保存運動などについて語る楠田さん=東京都内

焼け残った文書庫の中で保存運動などについて語る楠田さん=東京都内

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被爆・戦後75年 記憶をつなぐ 東京大空襲編・10完 文書庫 苛烈さ伝える

2020/03/10 掲載

焼け残った文書庫の中で保存運動などについて語る楠田さん=東京都内

焼け残った文書庫の中で保存運動などについて語る楠田さん=東京都内

 75年前、柴谷繁子さん(95)が暮らしていた東京・江戸川区逆井(さかさい)。現在、「逆井」の地名は住居表示から消え、戦時中を知る人も少ない。往時はにぎわった商店街にはマンションや民家も立ち並び、静かな通りとなっていた。
 そこから少し歩くと、5階建ての近代的なガラス張りの建物が見えた。「小松川さくらホール」と呼ばれるその施設の隣には、くすんだ2階建ての倉庫のような建物があった。コンクリート外壁の亀裂に白いモルタルを流し込んで補修した跡。東京大空襲で焼け残った旧江戸川区役所文書庫だ。
 当時、2人の当直職員が文書庫から戸籍簿や兵事関係書類などを麻袋20袋に入れて運び出し、庁舎脇の用水路に沈めて炎から守ったという。
 当直の1人がのちに区助役となる藤田昇さん(故人)。1980年代、文書庫の場所は再開発予定地となっていたが、藤田さんからその存在を聞いた地元労働団体の保存運動が実り、区は88年に残すことを決めた。
 文書庫の床面積は約32平方メートル。中に入ると、薄暗い空間の壁に焼け焦げた黒い跡が残り、空襲の苛烈さを静かに伝えていた。
 保存運動に関わり、現在も東京大空襲の記憶を継承しようと活動する人がいる。「世代を結ぶ平和の像の会」代表幹事の楠田正治さん(75)。保存が決まった後、藤田さんらと協力して犠牲者を追悼する「平和の像」をつくろうと区民らに寄付を呼び掛けた。1年で約1190万円を集め像を制作。現在は文書庫の隣に設置されている。
 楠田さんは「藤田さんは生前、地元の学校を回って子どもたちに空襲体験を伝えていたが、他の体験者も高齢となり語れる人はほとんどいない」と話す。
 楠田さん自身も大空襲時は生後9カ月で、父の工場があった福岡に家族と避難していた。平和の像の会の会員も減り、現在は30人ほど。今年1月の総会出席者は8人だった。平和の尊さを後世にどうつなぐか楠田さんの危機感は強い。
 2年前、区は小松川さくらホール1階に平和祈念展示室を開設。大空襲関連のパネルや戦時中の暮らしを伝える資料など約150点が並んでいる。以前は平和の像の会主催の3月の追悼式の前に数日間展示していたが、常設とした格好だ。
 「世の中がどんどん危ない方向に向かっている気がして、事実を伝える努力を続けなければならない。もう一度、藤田さんのように次世代に語り継ぐ場をつくりたい」。ホールの片隅で楠田さんが取材に答えている時、遊びに訪れた子どもたちの無邪気な声が館内に響いていた。