長崎市老人クラブ大会でハーモニカ演奏を披露する柴谷さん=市民会館

長崎市老人クラブ大会でハーモニカ演奏を披露する柴谷さん=市民会館

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被爆・戦後75年 記憶をつなぐ 東京大空襲編・9 郷愁の音色響かせて

2020/03/09 掲載

長崎市老人クラブ大会でハーモニカ演奏を披露する柴谷さん=市民会館

長崎市老人クラブ大会でハーモニカ演奏を披露する柴谷さん=市民会館

 1948年1月中旬、柴谷繁子は女の子を出産した。1週間後、繁子が助産院の畳の部屋で娘と2人で横になっていると、後ろの襖(ふすま)が開いたような気がした。振り返ると入院しているはずの父がうつむいて座り、そこだけスポットライトのように日が差していた。「あら、お父さん、赤ちゃんを見に来たの?」。繁子が尋ねても答えない。
 次の瞬間、夫が襖を開けて入ってきた。いつもなら娘の顔をのぞき込むのに、黙って畳に転がり鳥打ち帽を顔に乗せて表情を隠していた。「ああ、父が亡くなったんだ、父は別れを告げに来たんだ」。55歳の若さだった。
 繁子は3年後に長男を出産。美容師の資格を取り2店舗を構え、化粧品の販売会社も立ち上げた。子育てと仕事に追われ、高度経済成長の波に乗って生活が豊かになるにつれ、戦時中を振り返ることはあまりなかった。60歳をすぎて引退したが、自宅にこもっていると子どもたちが心配するので、手軽そうだったハーモニカの教室に通い始めた。
 2015年、戦後70年の節目の年。ふと戦時中に暮らしていた東京のまちを訪れたくなった。息子夫婦と孫娘が同行してくれ、父と東京生活を始めた落合、大空襲に遭った江戸川区逆井(さかさい)、勤めていた参謀本部の辺りを見て回った。目まぐるしい変わりように歳月の流れを思わずにはいられなかった。
 あの時代、誰もが戦争に一生懸命だった。国に振り回されているとは感じなかった。ただ、なぜあんな大国を相手に無謀な戦争に臨んだのか、と今は思う。戦争さえなければ、両親と一緒に穏やかな生活を送っていたかもしれない。
 最近、世界はきな臭くなっている。難民もあふれている。戦争が再び起きたら、若い人たちが75年前のような生活に耐えられるとは思えない。平和に生きることを真剣に考えてほしい。

 昨年11月、長崎市民会館であった市老人クラブ大会。繁子はホールの舞台に1人立っていた。手にはこの日のために練習を重ねてきたハーモニカ。大勢の高齢者の前で郷愁漂う高い音色を響かせた。曲は「荒城の月」。日中戦争が時代に暗い影を落とす中、東京の巣鴨女子商業学校でときめきながら踊った曲だった。
(文中敬称略)