東京大空襲の被災体験を語る柴谷さん=長崎市内

東京大空襲の被災体験を語る柴谷さん=長崎市内

ピースサイト関連企画

被爆・戦後75年 記憶をつなぐ 東京大空襲編・1 火の粉の帯、走る 柴谷繁子(しばたに・しげこ)さん(95)=長崎市=

2020/03/01 掲載

東京大空襲の被災体験を語る柴谷さん=長崎市内

東京大空襲の被災体験を語る柴谷さん=長崎市内

柴谷繁子(しばたに・しげこ)さん(95)=長崎市=

 3月10日は「陸軍記念日」だった。1905年、日露戦争の奉天(現中国・瀋陽)会戦で日本軍が勝利した日。その40年後、日本の首都・東京は壊滅的な被害をこうむることになる。
 45年3月9日、20歳の松本(現姓柴谷)繁子は東京・市ケ谷の参謀本部で働いていた。担当は経理。具体的な内容を知らないまま、上官から指示された数字をそろばんで弾(はじ)いていた。戦死者への一時金ではないか。察しが付いたとしても、うかつに口には出せない。ほとんどの書類に「秘」と押印され、業務を外部に漏らすことは許されない。息の詰まるような毎日だった。
 でも、この日はいつもと少し違った。「明日は陸軍記念日。景気の良い話が聞けないかな」。同僚とそんな話をして、夕方、参謀本部を後にした。当時習っていた速記の教室に寄り、父と継母が待つ自宅に帰った。
 このころ米軍機が上空に何度も迫り、就寝しても警報で起こされた。寝る時は居間の壁際に暖房用のねこあんかを置き、繁子と父と継母はそちらに足を向けて布団に入った。繁子はすぐ逃げられるよう肌着の上に薄い服を着て、靴下も履いたまま。ブラジャーと肌の間に、1カ月分の給料30円くらいを挟んでいた。懐中電灯、少量の大豆、化粧品などを入れた非常袋、防空頭巾もそばに置いていた。
 10日午前0時15分。ウッウッウッウッ。慌ただしく鳴り響く空襲警報と地響きで跳び起きた。いつもの「ウーウー」と間延びした警報とは違い、「早く逃げろ、早く逃げろ」と急かすようだった。ラジオも「本日来襲せる敵はB29にして1機宛連続侵入し主として焼夷(しょうい)弾を投下せり 尚後続敵機は逐次侵入しつつあり」と非常事態を告げていた。
 家の外からは走って逃げる人たちの叫ぶ声。父はゲートルを巻きながら「早く支度をしろ」と言う。防空頭巾をかぶりオーバーを着て、非常袋を肩から掛けた。
 玄関を開けると、火の粉が帯状になって目の前を走っていた。裏口に回っても同じ。火の粉の帯が家を取り巻いていた。仕方なく玄関から火の粉をかぶりながら外に出た。継母は隣組の近所約10世帯を走り回り、取り残された人がいないか確認していた。待つこと数分、上空から焼夷弾がバラバラと降ってきた。(文中敬称略)

 先の大戦から75年もの歳月が流れた。多くの戦争体験者が他界し、遠い記憶を次世代につなぐ時間はわずかしか残されていない。今年、長崎新聞社はこれまで語られなかった生存者や遺族の証言に耳を傾ける。第1部は、約10万人が犠牲になったとされる東京大空襲を生き延びた柴谷繁子さん(95)=長崎市=の物語をつづる。