被爆71年ナガサキ 形見は語る 原爆が奪った命の声 4

父のすずり箱を前に「真剣な表情で静かに筆を動かす姿を覚えている」と話す近藤さん=長崎市秋月町の自宅

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被爆71年ナガサキ 形見は語る 原爆が奪った命の声 4 すずり箱 達筆な父 誇らしく

2016/07/23 掲載

被爆71年ナガサキ 形見は語る 原爆が奪った命の声 4

父のすずり箱を前に「真剣な表情で静かに筆を動かす姿を覚えている」と話す近藤さん=長崎市秋月町の自宅

すずり箱 達筆な父 誇らしく

 満月の光を受けて二羽の鶴が輝いている。書道の道具を入れるすずり箱に施された螺鈿(らでん)細工。原爆投下の1年前、三菱長崎造船所幸町工場の工場長に就任した父に、部下が贈った記念品だ。

 近藤実(84)=長崎市秋月町=は戦時中、父の明がこのすずり箱から筆や墨などを取り出し、真剣な表情で紫檀(したん)の机に向かっていた姿をよく覚えている。達筆だった父は、近所の若者に召集令状が届くと、のぼり旗に「祝出征」と書くよう頼まれた。町中の人が若者を見送る列の先頭に父の文字。「俺のおやじはさすがやろう」。誇らしかった。

しかし、戦況が悪化し、父も工場に寝泊まりする日が続くようになると、実がすずり箱を目にする機会も減っていった。

 原爆投下時、父は出勤しており、その日は帰ってこなかった。工場は爆心地から1・2キロ。工場長の立場上、現場を離れられないのか、それとも-。不安を感じながらも待つしかなかった。

 「実、お父さん生きとったってよ」。数日後、自宅そばで遊んでいると、近くに住む叔母が坂を駆け上ってきながら言った。思わず涙があふれ自宅に戻り、仏壇に供えていた水を捨てた。

 だが何日たっても父は帰らず、ついに母が工場に向かった。帰宅した母の手には鉄かぶと。中には白い骨がいくつも入っていた。父は工場内で会議中に被爆。そこにあった数十体の骨の一部を母は持ち帰ったという。

 そのとき、実はどう感じたか覚えていない。ただ現実を受け入れるしかなかった。母は家計を支えるために洋服の行商を始めた。大きな風呂敷を背負い、きつそうに出掛ける姿を見るたび「おやじがおれば、こんなに生活は苦しくなかったのに」と思わずにはいられなかった。

 時とともにすずり箱の存在はすっかり忘れ、結婚して3人の子どもに恵まれた。1972年、狭くなった自宅を建て替えるため部屋を片付けていたら、処分しようと思っていた机の中にすずり箱が入っていた。「おやじが使っとったやつだ」。父の姿を思い起こせる唯一の品。「捨てるわけにはいかない」と取っておいた。

 時はさらに流れ、6人の孫ができた。孫の1人とは大好きな登山を楽しむこともあり、「この上ない幸せだ」と目を細める。