戦後71年ながさき 戦争の残照<p>旧日本兵の証言 元陸軍第十八師団伍長<p>尾上宮雄さん(94)=長崎市 3

フーコンやバーモで泥沼の戦いを続けた陸軍第十八師団山砲兵第十八連隊第一中隊の戦友会。後列で両肩に手を置かれているのが尾上さん=1972年9月、島原市内の旅館(尾上さん提供)

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戦後71年ながさき 戦争の残照

旧日本兵の証言 元陸軍第十八師団伍長

尾上宮雄さん(94)=長崎市 3 死の谷で傷病兵 自決も

2016/01/20 掲載

戦後71年ながさき 戦争の残照<p>旧日本兵の証言 元陸軍第十八師団伍長<p>尾上宮雄さん(94)=長崎市 3

フーコンやバーモで泥沼の戦いを続けた陸軍第十八師団山砲兵第十八連隊第一中隊の戦友会。後列で両肩に手を置かれているのが尾上さん=1972年9月、島原市内の旅館(尾上さん提供)

死の谷で傷病兵 自決も

 1942(昭和17)年6月ごろ、尾上宮雄がビルマ(現ミャンマー)で合流した陸軍第十八師団は、その後、占領地防衛のため北部で警備に当たっていた。

 43年1月、ビルマ奪還を狙う連合軍は、インドと中国をビルマ経由で結ぶ輸送路「レド公路」の建設へ動きだした。一方、日本軍は英領のインド北東部インパールの急襲を計画。3師団など計約10万人が標高2千メートル超の山脈を越えて300キロ以上を戦いながら歩き、目的地に至る作戦。その一環で、第十八師団は10月から、レド公路を遮断する戦いを一手に担い、北部フーコンで連合軍との持久戦に入った。死の谷とも呼ばれる密林地帯。立ち込める熱気と湿気は感染症の遠因となり、日本兵を苦しめた。

 尾上らが担当する94式山砲は、有効射程6300メートル。1分間に3発砲撃できるが、弾薬不足で発射は1日3発に限られた。対する連合軍は圧倒的兵力。空路で確実な補給を続けていた。第十八師団は退路、補給路を断たれ、食糧、弾薬とも底を突きかけた。

 飢えはパイナップルの芯やカエルなどでしのいだ。ジャングルには野生のトラや毒蛇が潜んでおり、精神的にも極限まで追い込まれた。足手まといになる傷病兵は密林に残していくしかなかった。「置いていってくれ」。動けなくなった仲間の言葉を受け、その場を去ると100メートルも進まないうちに自決用の手りゅう弾のさく裂音が響いた。そんなことが幾度もあった。

 44年3月に決行されたインパール作戦で、日本軍は戦死3万人、戦傷病者4万余を出し総崩れ。第十八師団はフーコン戦線を約200日間死守し、レド公路遮断の拠点バーモ付近で守戦に回った。連合軍は砲撃で陣地破壊を繰り返し、薄暮からは照明弾、信号弾を駆使した歩兵の侵攻が続いた。

 同年12月、山砲を据えた尾上の分隊の陣地が、上空の偵察機に見つかった。陣地は3畳半ほど。「(砲弾が)70~80メートル地点で落ちました」。さらに「20~30メートル」。着弾が確実に近づく。3発目が付近で爆発。砲弾の破片が分隊長の胴を切り裂いた。「水を飲ませてくれ」。最期を悟ったひと言。あらわになったはらわたがピクピクと動いていた。水筒の水はわずかで、分隊長の唇を湿らせることしかできなかった。

 陣地にいた11人のうち9人が負傷し、絶命。「明日はわが身」。尾上に上官や戦友の死を悼む余裕などなかった。