戦後71年ながさき 戦争の残照<p>旧日本兵の証言 元陸軍第十八師団伍長<p>尾上宮雄さん(94)=長崎市 2

訓練を受けた中国で、銃剣を手に軍服姿で写真に納まる尾上さん

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戦後71年ながさき 戦争の残照

旧日本兵の証言 元陸軍第十八師団伍長

尾上宮雄さん(94)=長崎市 2 “替えが利く”よう訓練

2016/01/19 掲載

戦後71年ながさき 戦争の残照<p>旧日本兵の証言 元陸軍第十八師団伍長<p>尾上宮雄さん(94)=長崎市 2

訓練を受けた中国で、銃剣を手に軍服姿で写真に納まる尾上さん

“替えが利く”よう訓練

 尾上宮雄は1921(大正10)年、北高戸石村(現長崎市上戸石町)で左官の父甚八、母千代の長男として生まれた。縄跳びにこま回し、山登りと遊び回った幼少期。”当たり前の幸福”があった。

 地区の青年学校に進むと「国のために命をささげろ」と教え込まれ、銃撃や武装競争の訓練に励んだ。人の死を前提とする訓練を楽しいとすら感じていた。卒業後、父と共に左官として働いたが、41年8月に徴兵検査を受け甲種合格。12月8日、日本軍の真珠湾攻撃で太平洋戦争の火ぶたが切られた。日本軍は南方などに侵攻していく。

 翌月、尾上の壮行会が地元であった。詰め掛けた親類縁者や近所の人が日の丸の手旗を振る中、かわいい女学生の姿を見つけ「死んでもいい」と覚悟を決めた。「一つでも手柄を立て、一つでも階級を上げよう」

 重ねた戦績から軍部に「菊兵団」と名付けられた陸軍第十八師団の山砲兵第十八連隊に、福岡県久留米市で所属した。山砲とは、分解して運べる山地用の火砲。当時20歳だった。連隊本隊への合流前に、訓練のため中国へ。”陸軍最強”の呼び声も高い牟田口廉也中将率いる同師団への入隊は誇らしかった。

 「上官の命令は天皇陛下の命令と思え」。中国での訓練は過酷だった。山砲兵の分隊は敵の観測や砲弾装?(そうてん)など各兵の役割が明確だが、尾上は全ての手順と操作方法をたたき込まれた。「誰が死んでも”替えが利く”ように」と理解した。砲弾などを運ぶ馬の蹄鉄(ていてつ)に馬ふんがついているのを見つけた上官に、こう言われたこともあった。「なめてきれいにしろ」

 第十八師団は、開戦で英拠点シンガポールを攻略する「マレー作戦」を展開。さらに中国将介石軍への連合軍の支援路を遮断する作戦を展開していたビルマ(現ミャンマー)戦線に参戦し42年4月、南部ラングーン(現ヤンゴン)に到達。日本軍は上陸からわずか2カ月でビルマを占領した。

 中国で訓練を終えた尾上は同年6月、ビルマで同師団本隊と合流。「いかなる困難も乗り越えなければ」。恐怖心を閉じ込め、警備に当たった。食糧も軍備もまだ豊富な状況で「敗戦など想像できなかった」。

 同じ頃、日本軍はミッドウェー海戦で主力空母4隻などを失った。43年、連合軍はビルマ奪回へ反攻を開始する。

【編注】中国将介石軍の将は草カンムリに将の旧字体