戦後70年 ながさき 赤とんぼの海へ 波に散った若者たち 2

那覇空港で海上自衛隊員の話を聞く古川薫さん(左)=沖縄県那覇市

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戦後70年 ながさき 赤とんぼの海へ 波に散った若者たち 2 「誠心整備」届いた遺書
激戦の海 今は楽園

2015/06/16 掲載

戦後70年 ながさき 赤とんぼの海へ 波に散った若者たち 2

那覇空港で海上自衛隊員の話を聞く古川薫さん(左)=沖縄県那覇市

「誠心整備」届いた遺書
激戦の海 今は楽園

直木賞作家の古川薫(90)は戦時中、日立航空機羽田工場で練習機「赤とんぼ」の修理に携わった。1944年秋、最後に修理した1機の操縦席の機器の傍らに「武運長久ヲ祈リツツ本機ヲ誠心整備ス」という言葉を、氏名と工場名を添えて刻んだ。翌45年8月初旬、古川の元に、台湾新竹航空基地から、1通の手紙が届いた。差出人はM・Kのイニシャルだった。「貴方の一文を発見し、最後のお別れを告げたくなりました。誠心整備された栄光の赤トンボを操縦して行きます。かなわぬまでもやれるだけの事はやってまいります」と書かれた遺書だった。

当時古川は20歳。その後の取材でM・Kが、7月27日に台湾新竹航空基地を飛び立ち、28日深夜に沖縄・宮古島基地から出撃して戦死した、神風特別攻撃隊第3次龍虎隊(赤とんぼ特攻隊)の一人であることが分かった。同年代の青年が、自分が手掛けた飛行機で、国のため、家族のためにと、若い命をささげたのだった。

古川は昨年、このエピソードを基に自伝的小説「木枯し帰るところなし 赤トンボ年代記」を山口新聞に連載した。「生き残ったのだから、同世代のことを自分の手で書き残しておかなければならない。使命だと思い、最後のライフワークとして書いた」。7月下旬に、単行本「君死にたまふことなかれ(仮題)」として出版される。

慶良間諸島は、日本本土侵攻を目指す米軍が、沖縄攻略に向けて上陸した所。この沖に千隻を超える艦隊が集結した。この海域で日米の激烈な攻防戦が展開された。

現在は、夏になるとスキューバダイビングやホエールウオッチングを楽しむ若者らが大勢訪れる。

「機上から見る慶良間の海は美しかった。70年前に敵味方双方に多くの犠牲を出した海が、今はリゾート地になっている。皮肉な感じもしましたが、個人的には何の恨みもなく死闘して果てた両軍兵士たちもみんな、こんな平和を望んで戦ったのだから、この楽園の風景を上空からほほ笑んで見てくれていると思います」

=文中敬称略=