被爆70年へ 長崎の記憶 写真が語る戦前~戦後 第5部「1945年の日記」 2

戦後購入したカメラや写真を前に戦時中を振り返る川口さん=長崎市銭座町

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被爆70年へ 長崎の記憶 写真が語る戦前~戦後 第5部「1945年の日記」 2 グラマンの攻撃を目撃

2015/06/09 掲載

被爆70年へ 長崎の記憶 写真が語る戦前~戦後 第5部「1945年の日記」 2

戦後購入したカメラや写真を前に戦時中を振り返る川口さん=長崎市銭座町

グラマンの攻撃を目撃

川口和男(86)=長崎市銭座町=の父は1944年12月に病死。45年は母、きょうだい4人と一緒に御船蔵町に暮らしていた。

食糧難で、食べ物は乾パンか蒸したイモ、カボチャ。白米は祝い事の日だけ。母シメは、自分の分を減らしてでも子どもに食べさせたが、それでも満足できる量ではない。川口は「おなかいっぱい食べたいな」と弟とよく話していた。

一方で、勉強への渇望もあった。とにかく文字を書きたくて、45年の手帳に日記を付け続けた。ペンのインクは水で薄めて使った。

5月8日 仕事はあまりなかった。長中の生徒が一時かせいにきたがあまり働かなかった。そして一人が海軍からうたれた。皆勤パンを貰(もら)った(トンネル内)

10日 7時50分ごろ空襲あり間もなく解除になったが又空襲ありトンネルに入る。

15日 空襲が数回なり10時半頃伊王島沖で船舶をグラマン(米軍機)が数回にわたり攻撃するのを見た。

7月5日 12時半空襲あり敵機を壕内より見物す。

10日 新聞をかひ帰る。かへって芋と乾パンを喰(く)ひすぐねる。

8月に入ると毎晩のようにラジオが警報を告げた。夜中に飛び起き防空壕(ごう)に駆け込むこともしょっちゅう。防空頭巾は常に近くに準備。いつも気が張っていた。

8月1日 起床6時8月にはなったがあまり暑くない。11時空襲あり蔭ノ尾のトンネルに待避する。間もなく大空襲あり53番船後部より数次にわたり爆発す長崎大分やられ造船所もやられる。

6日 起床5時山にねたので体がきつく蚊がいてあまりねられず困った。9時で行く。中田休んでおらず仕事は忙しくひまなし。

防空壕には子どもからお年寄りまで大勢集まり、入れないことも。このため川口ら若者は山で寝ることも多かった。度重なる夜間の空襲で睡眠不足となり疲労困憊(こんぱい)。精神的に追い詰められ「本音では勝つのは難しいのではと思っていた」

7日 起床5時50分間もなく空襲あるが間もなくまちがひとわかる。11時又空襲あり1時半解除そして飯を食ふ昨日の飯で少しねまっていたが我慢する。

日記は、8月8日から12日まで空白となっている。