原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第1部「第一報」 6

編集局長だった田中豊秋の1946年の日記帳

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原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第1部「第一報」 6 焼失
社屋炎上、輪転機も損壊
編集局長の日記に「痛心」

2014/08/05 掲載

原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第1部「第一報」 6

編集局長だった田中豊秋の1946年の日記帳

焼失
社屋炎上、輪転機も損壊
編集局長の日記に「痛心」

爆心地から3キロ以上離れた県庁の火災発生は、原爆投下から1時間余り経過した午後0時半ごろ。近くの長崎新聞社も屋上で発火した。当時の同社計理局次長は「屋上に上がってみると紙くずに火がついている。消火はしたもののしばらくするとまた発火」と後年の紙面で回顧している。

原爆は、強烈な熱線を照射、多量の熱エネルギーが遠方まで放出された。長崎原爆戦災誌では、3・3キロ以内で黒い紙が燃え、同4キロ以内でやけどを起こすとしている。2次火災は熱線が可燃物に潜伏し、やがて同時多発的に自然発火し発生したとみられる。

同盟通信記者だった松野秀雄(2000年82歳で死去)の著書「太陽が落ちる」などによると、県庁から燃え広がり、煙が上がった長崎新聞社は正面の上野屋旅館、右の福屋旅館の火の粉を浴びた。長崎新聞社長の渡貫良治らは午後5時前、社屋が焼け落ちるのを見届けた。夜にかけ旧市内約30カ町が全焼した。

一方、爆心地に近い油木谷で同社が建設中だった印刷の疎開工場。印刷部の佐藤一雄(1994年86歳で死去)の手記では、印刷部員の金子國男と臨時雇いの4人の計5人が爆死。活版資材置き場は跡形もなく、輪転機は爆風で飛んできた橋の欄干の直撃を受けた。

同社編集局長で45歳の田中豊秋(75年75歳で死去)は、家族を佐賀県多良村(現・太良町)の実家に疎開させていて、月数回、会いに行く生活を続けていた。

8日はたまたま家族と過ごした。9日朝、浦上に午前11時ごろ着く列車に乗るつもりだったが、住民が朝から実家の敷地に防空壕(ごう)を掘らせてと頼んできたため予定を遅らせた。長女の森裕子(80)=諫早市泉町=によると、実家から多良岳上空に立ち上るきのこ雲を田中は見た。

長崎の街は、同僚は、社屋はどうなったのか。田中は列車で長崎へ。「道ノ尾駅から市街地まで歩いた。線路脇に倒れている人たちが追いすがってきたが、振り払うようにして歩いた」。森は父からそう聞いた。

原爆について話したがらなかったという田中。被爆69年となる今夏、原爆の翌年の46年の日記帳が佐賀の実家の蔵で見つかった。毎日びっしり記しているが、同年8月9日は空白が目立つ。そこにはこうあった。

「痛心の想い出又新たし、感懐のみ多く深し」

森は「父はあの日、地獄を見たのだろう」と語る。