原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第1部「第一報」 7

現存する立山防空壕。県が当初上げた情報が「被害は僅少」の司令部発表につながった(多重露光)

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原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第1部「第一報」 7 被害僅少
知事、全容把握せず電報
司令部発表となり紙面に

2014/08/06 掲載

原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第1部「第一報」 7

現存する立山防空壕。県が当初上げた情報が「被害は僅少」の司令部発表につながった(多重露光)

被害僅少
知事、全容把握せず電報
司令部発表となり紙面に

同盟通信長崎支局の無線設備が置かれていた立山防空壕(ごう)。8月9日午前11時、当時19歳の通信技師、北川正孝(88)=長崎市丸尾町=は、同僚からレシーバーを受け取り、無線設備の前に着席。モールス信号で東京本社の配信記事を聞きながら、タイプライターで文字に変換しはじめた。内容は、広島の新型爆弾に関してだった。

そのとき、ごう音が響き、幅5メートルほどの壕内に砂交じりの爆風が一気に吹き込んできた。爆心地から2・7キロ。北川は椅子ごと倒れ、タイプライター用の紙が散乱。停電でモールス信号を聞くことはできなくなった。やがて、血だらけの住民ら数十人が押し寄せた。

長崎原爆戦災誌によると同時刻、同じ壕内の別区画の県防空本部に知事の永野若松がいた。広島への新型爆弾投下などを受け、老人や子どもらを退去させる対策会議中。部屋は壕の最も奥にあり、一筋の光とざわめきが届いたにすぎなかったが、電灯が消え、事態に気付いた。

後年の永野の証言では、外に出ると金比羅山の向こう側から煙が噴きのぼり、浦上方面が大火災となっていることは分かった。しかし、手前の風景はいつも通りに見え、安心したという。さらに、被害が少ない区域から上がってきた警察の報告を受け、被害の全容を理解しないまま原爆投下から2時間もたたないうちに「広島に比べ被害は軽微」とする防空情報第1報を電報で西部軍管区司令部に送った。

これを受け、同司令部は次のように発表した。

「一、八月九日午前十一時頃敵大型二機は長崎市に侵入し新型爆弾らしきものを使用せり」

「二、詳細目下調査中なるも被害は比較的僅少なる見込」

知事の司令部への防空情報は同日5回送っており、9日午後8時現在の状況をまとめた第5報は死傷者数を5万人くらいとした。同盟通信の松野秀雄もこの夜、徐々に明らかになる被害の甚大さを情報として本社に伝えた。だが、10日付の長崎新聞は「被害は僅少の見込み」との見出しで同盟通信が配信した司令部発表を掲載することになる。

北川は、振り返る。「本当のことを言っても取り上げられない時代だった」。そして、こう続けた。「しかし、時代のせいにして済む話ではない。明らかに誤った内容の司令部発表を配信した報道機関の関係者として責任を感じる」(敬称略)