原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第1部「第一報」 1

新型爆弾(原爆)の長崎への投下と、ソ連進攻を報じた1945年8月10日付「長崎新聞」の1面

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原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第1部「第一報」 1 軍発表のまま「被害僅少」
社屋焼失、印刷委託し発行

2014/08/01 掲載

原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第1部「第一報」 1

新型爆弾(原爆)の長崎への投下と、ソ連進攻を報じた1945年8月10日付「長崎新聞」の1面

軍発表のまま「被害僅少」
社屋焼失、印刷委託し発行

長崎新聞は1945年8月10日付の紙面で「長崎市に新型爆弾 被害は僅少の見込み」との見出しで、「西部軍管区司令部発表(昭和二十年八月九日十四時四十五分)一、八月九日午前十一時頃敵大型二機は長崎市に侵入し新型爆弾らしき物を使用せり 二、詳細目下調査中なるも被害は比較的僅少なる見込み」との記事を掲載した。被爆70年の2015年に向けた年間企画「原爆をどう伝えたか」の第1部では、この紙面がどのようにして生まれたか、その背景と当時の混乱状況を探る。

■言論統制

戦時下では多くの法令が新聞製作を縛った。基本的な統制法規は、戦前の1909(明治42)年に施行された新聞紙法だった。同法では「安寧秩序」や「風俗」を乱す新聞の発行禁止を認め、軍事や外交に関し陸海軍大臣と外相に記事の掲載禁止権を与えた。20年代にかけ、内務省の下部組織として思想や政治的な動きを取り締まる特別高等警察(特高)が全国に設置され、検閲も担った。検閲は公権力が表現内容を強制的に調べることで、今の日本国憲法では禁じられている。

31年からの満州事変で日中関係が緊迫の度を増す中、国内では軍部の動きが活発化。32年には海軍の青年将校らが犬養毅首相を射殺した「五・一五事件」、その4年後には陸軍青年将校らによるクーデター未遂事件「二・二六事件」が起こる。厳しい報道規制が敷かれ、同事件を伝えるべき2月27日付の長崎日日新聞(長崎新聞の前身)のトップ記事は印刷直前に鉛版が無残に削られ、後藤文夫内務大臣の首相臨時代理就任だけを伝える紙面となった。

37年に日中戦争が始まり、38年には政府が総力戦遂行のために人や物を一定の計画や方針に従って指導、制限する「国家総動員法」が施行。国民全体への戦時統制は一段と強化されていく。

■一県一紙

41年12月7日(日本時間同8日)、日本海軍が米太平洋艦隊の拠点だったハワイ・真珠湾を攻撃。太平洋戦争の火ぶたが切られる。開戦後、新聞を縛る法令が相次いで定められ、軍からの公式発表「大本営発表」をそのまま伝える報道姿勢が鮮明になっていく。

同13日施行の「新聞事業令」により日本新聞会が統制団体として発足。用紙の割り当てや新聞社の整理統合が進められ、「一県一紙」が原則となった。

本県では「長崎日日」「長崎民友」「軍港」「島原」の4紙を統合し、42年4月に「長崎日報」を創刊。事務所は長崎市大村町(今の万才町)の旧長崎日日新聞社に置き、同社の資材を借りて発行した。報道統制が狙いだったが、用紙やインクなど深刻な物資不足に苦しんでいた新聞社にとって、経営基盤の強化につながった側面もある。

45年になると、地方紙を母体に中央紙が合同の新聞を発行するという内容の閣議決定がなされる。本県では4月1日付から長崎日報に読売報知、毎日、朝日の中央3紙を合わせた紙面を発行。7月1日付からは「長崎新聞」に改題した。

■原爆投下

45年8月6日の広島に続き、同9日、長崎に原子爆弾が投下される。

永野若松知事は9日、立山防空壕(ごう)内に設けた県防空本部に警察幹部を集め、緊急会議を開いていたところ、午前11時2分を迎えた。

「右爆弾ハ広島市ヲ攻撃セルモノヨリ小型ト認メラレ負傷者相当アル見込ナルモ、広島ノ被害ニ比較シ被害ノ程度極メテ軽微ニシテ死者並ニ家屋ノ倒壊ハ僅少ナリ」

知事は西部軍管区参謀長などに宛てた第1報で、広島に比べ「被害は軽微」と報告。新型爆弾が使用されたとの認識には立っていたが、第3報(午後3時現在)までは具体的な被害状況を把握できていなかった。

新型爆弾という言葉が使われたのは第4報(同6時)からで、当日最後の報告となった第5報(同8時)で初めて死傷者数に言及。「約5万人くらいと認められるが、正確な調査は困難で今後なお増加の見込み」とした。

県庁舎を含む市街はこの日の正午すぎに火災が起き、長崎新聞社は社屋を焼失。福岡市の西日本新聞社と相互協定を結んでいたため、10日付は題号だけ「長崎新聞」に切り替えて印刷を委託した。

代理印刷された10日付の長崎新聞には「被害は比較的僅少なる見込み」とする記事が掲載された。また、11日付では「僞騙(ぎへん)行動で不意打 新型爆弾に厳戒を要す」の見出しで「長崎市の暴爆(ぼうばく)は官民の適切な措置により被害を比較的僅少に止めたが、今後敵が如何なる方面に向つてこの種攻撃をなすか豫測(よそく)を許さず、厳重警戒が肝要である」などと報じた。これらの紙面が被爆地の地元紙としての「原爆報道」のスタートとなった。

戦時中の新聞は、軍の公式発表「大本営発表」を基にした偽りの戦況、県民の戦勝ムードを伝える記事ばかりが目立つ。長崎新聞社OBで社史編さんを担当した宮川密義さんは「戦時下の言論統制で国策にのっとらざるを得なかった」としつつ「当時の(軍国主義に基づいた)世論や新聞業界を取り巻く環境も影響したのでは」と指摘する。

宮川さんによると明治時代、全国で新聞の創刊が相次いだが、多くが政治色の濃いもので、政府に批判的な論陣を張るケースもあった。そこで政府方針に沿った形で国造りを実現するため、新聞紙法など言論統制の法整備を進めたという。

◎長崎新聞社OBで社史編さんを担当 宮川密義さん(80)/厳格な統制 記事に影響 世論や業界めぐる環境も

戦時中はさらに統制を厳格化。当時の紙面について宮川さんは「記者を戦地派遣した独自取材もあったが、ある程度、国の方針に調和するようにしながら、やらざるを得なかった」と分析する。

一方、満州事変が始まった1931年、軍部への批判的な記事を掲載した全国紙に在郷軍人会などの不買運動が起きたとの記録も残る。33(昭和8)年生まれの宮川さんは戦時中の世論について「大人も子どもも『日本のために』との思いが強かった」と振り返る。

真珠湾攻撃と太平洋戦争の開戦を伝える41年12月9日付の長崎日日新聞は、長崎市内で必勝祈願祭が盛大に催されたことを報じており、戦勝ムードを高めている。宮川さんは「当時、ほとんどの国民は新聞から情報を得ていた。『日本が勝った』という記事を読みたがっていたと思うし、新聞社も国への批判的な記事を載せることには抵抗があっただろう」とする。