ナガサキの被爆者たち 山口仙二の生き方 1

一日の大半をケアハウスのベッドで過ごす山口仙二さん。言葉を交わす際、時折苦しげな表情を浮かべる=雲仙市内

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ナガサキの被爆者たち 山口仙二の生き方 1 原点
激痛に「殺してくれ」 姿変わり果て実家へ

2012/08/04 掲載

ナガサキの被爆者たち 山口仙二の生き方 1

一日の大半をケアハウスのベッドで過ごす山口仙二さん。言葉を交わす際、時折苦しげな表情を浮かべる=雲仙市内

原点
激痛に「殺してくれ」 姿変わり果て実家へ

桜の便りが届いた3月末、雲仙市のケアハウス。「ようこそ、いらっしゃいました」

かつて「不屈の闘士」と評されたその人は、車いすに座り、好々爺(や)の穏やかな表情を浮かべた。

日本の反核・被爆者運動の顔、山口仙二(81)。9年前から妻幸子(77)と暮らしている。既に第一線から退き、一日の大半をケアハウスのベッドで過ごす。持病のぜんそくに加え、大動脈の病気で手術が必要だが、体力的に難しいらしい。

「締め付けられるような痛みがある」。顔に刻まれたしわがゆがんだ。

運動をけん引していた時代のことを尋ねると、記憶の糸を手繰ろうとして、考え込んだ。やがて自分の頭を指して「とにかく、これがだめです」と冗談っぽく笑った。

1945年8月9日。照り付ける太陽の下、14歳の仙二は三菱重工長崎兵器製作所大橋工場の敷地内で上半身裸になって、防空壕(ごう)を掘っていた。その年の春、古里の五島列島を離れ、旧県立長崎工業学校(現県立長崎工高)に入学。学徒動員で配属されたのが大橋工場だった。

「昼食前に完成するぞ。もう少しだ」。くわを振り上げた瞬間、青白い閃光(せんこう)が目に映った。

意識が戻ると、同僚たちの姿がない。工場は火柱を上げていた。爆心地から1・1キロ。

山手へ逃げる人たちについて、無我夢中で走りだした。ようやく山の開けた所に着くと、黒焦げの人たちであふれ返っていた。性別も分からないほど膨れた顔。白い歯が浮き上がって見える。ふと自分の体の異常に気付く。両手や胸、腹が焦げ、腫れ上がっていた。

山を下り、救援列車に必死で乗り込んだ。入院先の大村海軍病院では、ただれた上半身に無数のうじがわき、針で突かれるような痛みが続いた。やけどの肉にめり込んだガーゼを取り換えてもらうたび、一気に剥ぎ取られ、その激痛に「殺してくれ」と叫んだ。

翌年3月に退院したが、やけどの引きつれとケロイドで口や両腕、首は曲がったまま。船で五島に渡り、実家に帰る道すがら、己の変わり果てた姿が恥ずかしく、うつむいて歩いた。

=文中敬称略=

原爆の惨禍から立ち上がり、戦後67年を懸命に歩んできた被爆者たち。平均年齢は78歳を超え、直接話を聞けるタイムリミットは刻々と迫っている。

被爆70年に向けて、長崎原爆の原点を見つめ、被爆者の生きざまを伝えるシリーズ「ナガサキの被爆者たち」を始める。この夏、取り上げるのは日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)顧問の山口仙二さん。