流転 外国人被爆者手帳「1号」
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長崎で被爆した在台湾被爆者王文其さん(左)の聞き取り調査をする弁護団と支援者=2011年1月、台湾・嘉義市

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流転 外国人被爆者手帳「1号」 4 掘り起こし
台湾に援護届かず

2012/08/03 掲載

流転 外国人被爆者手帳「1号」
  4

長崎で被爆した在台湾被爆者王文其さん(左)の聞き取り調査をする弁護団と支援者=2011年1月、台湾・嘉義市

掘り起こし
台湾に援護届かず

長崎市の元小学校教諭、平野伸人(65)は、1980年代から韓国人被爆者と交流し、日本政府が外国人被爆者の援護に動かないと見るや、韓国人による訴訟を支援。日本人と同等の援護実現を目指してきた。

その平野が在台湾被爆者の調査に乗り出したのは2011年。「韓国、米国、ブラジルなど被爆者が多く住む国の状況はある程度明らかになったが、少人数の国がずっと気掛かりだった」のだという。

台湾は日本と正式な外交関係がなく、台湾の被爆者には日本政府の援護施策に関する情報も入りにくい状況にあった。台湾での調査で平野は12人の被爆者と面会したが、その平均年齢は85歳超。被爆者健康手帳を取得していても、手当受給などの手続きをしている人は少なく、援護はほとんど届いていなかった。

これを機に、国外居住を理由に援護の枠外に置かれたとして各国の在外被爆者が国を訴えている集団訴訟に、在台湾の被爆者も加わることになり、昨年5月提訴。今年3月に和解が成立し、在台湾被爆者への慰謝料支払いが決まった。

平野らは、この報告のため同月、台湾を訪問し、原告らに説明。台湾メディアの取材も受けた。同行していた長崎市の田川萬里(55)は、記者たちにこう呼び掛けた。

「原爆が投下されたときや直後、広島、長崎にいたと思い当たる人は、手帳や手当を受けることができるかもしれない。連絡をください。力になります」

田川の父、施焜山(しこんざん)は台湾出身で旧長崎医科大の医師だった。爆心地から約700メートルの同大で被爆。助教授だった永井隆とともに、郊外の三ツ山に「第11医療隊救護所」を設け、200人を超える負傷者を手当てした。

施は戦後の49年台湾に戻り、74年、世を去った。施の妻、田川千鶴子(91)も長崎で被爆後、ともに台湾へ渡った。「長崎の実家の父に、手帳を取るよう言われたこともあるが、台湾に帰れば使えないから意味がなかった」と振り返る。

57歳で亡くなった父の病気は、被爆の影響を受けていたと考えている萬里は「被爆者と知らないまま、人生を終える台湾の人たちがいる。在台湾被爆者の力になりたい」という思いで、調査に協力した。

長崎に戻って数日後、萬里の携帯電話が鳴った。電話の主は荘司みのり(61)。「広島で被爆した台湾生まれの母は(国賠訴訟に)該当するのでは」と語り始めた。=文中敬称略