流転 外国人被爆者手帳「1号」
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在台湾被爆者の訴訟和解を伝える電子版記事を見る荘司みのりさん=米オハイオ州

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流転 外国人被爆者手帳「1号」 5 闘病
次々に居宅変え米国へ

2012/08/04 掲載

流転 外国人被爆者手帳「1号」
  5

在台湾被爆者の訴訟和解を伝える電子版記事を見る荘司みのりさん=米オハイオ州

闘病
次々に居宅変え米国へ

台湾のメディアに「在台湾の被爆者がいれば、支援したい」と呼び掛け、帰国した長崎市の田川萬里(55)の携帯電話が鳴ったのは今年3月。

「広島で被爆した台湾生まれの母がいます。(国賠訴訟に)該当するのではないかと思って」

電話の主は米オハイオ州在住の荘司みのり(61)。新聞記事に書かれていた田川の電話番号にかけたみのりは、母荘司富子(86)の被爆者健康手帳について「1963年10月、外国人で初めて交付されたものだと広島市から聞いている」と話した。

田川から連絡を受けた「台湾の被爆者を支援する会」代表の平野伸人(65)は仰天した。しかし、在外被爆者支援に長年取り組んだ末、「外国人手帳1号」に出会えたのは「必然のようにも思えた」という。

広島市原爆被爆者援護行政史(96年発行)には「昭和38(1963)年には『観光ビザ』で訪れた台湾人(中略)に手帳を交付」との記述がある。広島市はこれが外国人への手帳発行の最初であることを認めているが、それが富子であることを本人に告げていたのだった。

63年、手帳の交付を受けた富子の健康はその後も持ち直さなかった。

富子は治療のため広島に残り、台湾に残した4人の娘たちと離れ離れの暮らしが始まった。「紫斑病」「肺結核」「高血圧」「不整脈」「神経症」-。闘病生活は、72年の日本と台湾の外交断絶を挟み、10年を超えた。

広島大医学部付属病院の医師として富子を見守ってきた鎌田七男(75)=広島原爆被爆者援護事業団理事長=は「被爆したときに爆心地近くの惨状を見たのがPTSD(心的外傷後ストレス障害)になっていた。台湾に残してきた娘たちを気遣う思いも症状悪化の原因になったようだった」と語る。

富子は85年、日本国籍を取得。台湾で成人した娘たちは、日本国内や米国に移り住み、富子は娘たちのもとを転々として暮らした。米オハイオ州の長女みのり宅に落ち着いたのは2001年だった。

富子は、日本を出国すると手帳も手当受給も失効する当時の在外被爆者の扱いを知らなかった。「ただただ病気から逃げるように居場所を変え、アメリカまで来てしまった」。闘病しながらの半生をそう振り返った。=文中敬称略