硫黄島からの生還
 =長崎・最後の証言者=
 <番外編> 下

2人の孫の桃の節句を祝う林田毅さん(右)。50代半ばごろという。左は長男の恭一さん(林田一葉さん提供)

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硫黄島からの生還 =長崎・最後の証言者= <番外編> 下 再 会 両足失った夫に胸詰まる

2007/08/31 掲載

硫黄島からの生還
 =長崎・最後の証言者=
 <番外編> 下

2人の孫の桃の節句を祝う林田毅さん(右)。50代半ばごろという。左は長男の恭一さん(林田一葉さん提供)

再 会 両足失った夫に胸詰まる

林田一葉(90)は本紙連載を読み進めるうち確信した。「やっぱりあの田川さんだ」。最後の証言者となった深堀(旧姓・田川)正一郎(88)は、米軍の捕虜になって一葉の夫の毅=一九八三年に六十九歳で死去=と出会った。長崎に戻ってからも親交があったが、いつからか音信不通になり、毅が亡くなったのを後で知った。深堀は葬儀に出席できなかったことをずっと悔やんでいた。

◇ ◇ ◇

一九四六年六月、一葉は美容室でパーマをかけていた。毅の戦死公報が届いてから日に日にやつれていく一葉を見かね、しゅうとめがパーマを勧めたのだった。そのしゅうとめが美容室に飛び込んできた。「はがきが来たよ。生きているよ」。確かに毅の字だった。

別の日本兵二人と手りゅう弾で自決を図った毅は、奇跡的に一人だけ生き残ったが、両足を失った。父親が英国の税関に勤めていたことから英語が得意だった毅は、米軍の捕虜の間、日本兵との通訳をして重宝がられ、帰国の際に義足をつけてもらった。

七月、諫早駅。一葉は七歳の長男、恭一の手を握って汽車の到着を待った。日赤の看護師に付き添われ、松葉づえをついて降りてきた毅を見つけ、胸が詰まった。

「おかえりなさい。ご苦労さまでした」

毅は笑みをたたえてうなずき、恭一に視線を移した。「大きくなったな」。恭一はじっと父の顔を見ていた。

自宅に戻った毅は必死でリハビリに励んだ。一葉の肩に右手をかけ、左手のステッキで体を支える。一葉の肩は真っ赤に腫れ上がった。毅が転ぶと一葉も一緒に倒れた。

仕事探しは難航した。毅は地元中学の英語教師を望んだが、「校内での移動ができない」と断られた。一時は落ち込んだ毅だが、やがて一葉の勧めで今で言う「英語塾」を自宅で開き、元気を取り戻していった。その後、別の仕事に就いたこともあったが、六十歳で倒れるまで子どもたちに英語を教え続けた。

毅は東京商科大(現・一橋大)を卒業後、大手商社に就職。海外支店に駐在するエリートだった。戦争がすべてを狂わせたが、恨みがましいことは言わなかった。ただ「日本は米国との物量の違いを知らなすぎた」と。

四月一日。毅は毎年必ず、戦友のために手を合わせた。自決を図ったその日。「自分にとっては特別な日なんだ」。そう言っていた。

◇ ◇ ◇

新聞で見た深堀の写真は、昔より随分やせ細っていた。一葉は約四十年ぶりに深堀の声を聞きながら、深堀と二人で食事に出掛ける毅の姿を思い起こしていた。「近いうちに必ず会いましょう」。一葉は固く約束して受話器を置いた。(敬称略)