硫黄島からの生還
 =長崎・最後の証言者=
 <番外編> 中

1935年、地元神社に浮立を奉納したときの浮與さん。横笛の腕前は「天下一品」だったという(中野武久さん提供)

ピースサイト関連企画

硫黄島からの生還 =長崎・最後の証言者= <番外編> 中 家 族 偏見と貧しさ耐えた戦後

2007/08/30 掲載

硫黄島からの生還
 =長崎・最後の証言者=
 <番外編> 中

1935年、地元神社に浮立を奉納したときの浮與さん。横笛の腕前は「天下一品」だったという(中野武久さん提供)

家 族 偏見と貧しさ耐えた戦後

「硫黄島の戦死者の名簿はどこで見られますか」。紙面に名簿の写真が載った十七日、諫早市の祐野幸代(62)から本紙に電話があった。父「中野浮與」の名前があるかを知りたいという。

連載で取り上げた深堀(旧姓・田川)正一郎(88)が持っていた名簿のコピーをめくった。名前はあった。「じゃあ間違いないですね」。どこか吹っ切れたような声が電話の向こうから聞こえた。

◇ ◇ ◇

一九四四年九月、中野家に四人きょうだい末子の三女が生まれた。既に硫黄島に出征していた浮與からは、その年の梅雨ごろ「子供の名もそちらでよいやうに」との手紙が届いていた。母ハルノは「早く幸せな世の中になってほしい」と願いを込め「幸代」と名付けた。幸代が一歳の誕生日を迎えたちょうどその日、浮與の戦死公報が届いた。一家は「片親」への偏見と貧しさの中で戦後を生きた。

長男の武久(67)は、小学生の時の悔しさを忘れない。上級生が小刀を奪おうとしたのを防ぎ、自分の手を切った。相手が仕掛けたことなのに、担任は「お前は片親だからなり損ないだ」と武久を怒鳴りつけ、胸ぐらをつかんでビンタを張った。

母は年老いた祖父母と農業をしながら野草や花を摘んで売り歩いたが、生活は苦しかった。武久はなんとか高校に進めたが、長女の直美(70)と二女の直代=故人=は断念せざるを得なかった。幸代にとって、運動会や絵画展は、副賞のノートや鉛筆を「ただ」で手に入れるための欠かせないイベントだった。

五〇年代前半、大量の遺骨が散乱している硫黄島の写真を新聞で見た母が一週間寝込んだ。母は父の死を認めていなかった。「おれがおるからよかやろが。おれに任せろ」。武久の言葉に、ただ泣くばかりだった。

◇ ◇ ◇

浮與とハルノの写真は今、武久の家の仏間に並べて掛けてある。それを見ながら幸代は言う。「父が生きていたら、私は音大に行かせてもらったと思う」。父の歌のうまさは近所でも評判で、「佐渡おけさ」は母がほれぼれするほどだったという。その血なのか、幸代も歌が好きだった。

幸代は高校を出てから市役所に就職。七七年に結婚し、二人の子どもに恵まれた。自分に父親の記憶はない。だから「父親を中心とする家庭を築こう」と心掛けた。家庭を持ってから、母の苦労が分かった。突然夫を奪われた母は、だれに相談することもできず、すべて一人で家族のことを決めていたのだろう。

六八年七月、母ははっきりした原因も分からないまま五十一歳の若さで亡くなった。その一カ月前、硫黄島は米国から日本に返還された。