平和と暴力
 =被爆62年・長崎= 5(完)

久間防衛相(右)に「発言は被爆地長崎として決して看過できない。核廃絶に取り組んでほしい」と要請する田上長崎市長(左)=防衛省

ピースサイト関連企画

平和と暴力 =被爆62年・長崎= 5(完) 顔 問われ続ける理念

2007/07/27 掲載

平和と暴力
 =被爆62年・長崎= 5(完)

久間防衛相(右)に「発言は被爆地長崎として決して看過できない。核廃絶に取り組んでほしい」と要請する田上長崎市長(左)=防衛省

顔 問われ続ける理念

「暴力は人間的なもの。核兵器廃絶には権力や国益がかかわる」。田上富久長崎市長は、被爆都市の取り組みと暴力との関係は「ちょっと異質だ」と言う。

個人が個人を狙う暴力は社会秩序にかかわる問題だが、大量殺りく兵器の廃棄は外交の問題。その意味で、伊藤前市長の射殺事件と、被爆地の主張とは次元が異なる-と田上市長は考える。

核兵器廃絶の悲願達成に向け「伊藤前市長の遺志を引き継ぐ」。八月九日、田上市長が初めて読み上げる長崎平和宣言では、こうした趣旨の文言が盛り込まれる。

宣言の起草委員会に当初示された事務局案では、前市長の死を核廃絶への思いの原点とする、との趣旨のくだりがあった。だが「事件が核廃絶の原点にはなり得ない」と議論になり、文言は消えた。平和宣言は核兵器廃絶の道筋を示すことを柱とする。そのテーマにそぐわないとの判断が背景にあった。

平和宣言は、被爆地が世界に平和実現を発信する「公式見解」であり基本理念。だがこれまで、核廃絶の目標からそれる事柄には踏み込まずにきた。大局的な平和構築についても例外ではない。

起草委ではかねて、広く世界平和を訴える観点から「世界の飢餓、貧困の問題にも踏み込むべきだ」などと指摘があったが、議論の過程で次第に埋もれていった。

被爆地が唱える「平和」。それは実質的には、核兵器廃絶の一本柱だといえる。一方で、国内外で言動が注目を集める“被爆地の顔”は本島等元市長、伊藤前市長ともに、定義もあいまいなまま「平和市長」と呼ばれてきた。

七月三日。就任二カ月余りの田上市長が行動を問われる場面があった。

当時の久間章生防衛相の原爆投下をめぐる発言を受け、上京して発言の主に直訴した。「心や体の痛みをこらえ、被爆体験を伝えている人もたくさんいる。ご理解いただきたい」。さらに安倍首相とも面会し、「核兵器廃絶は当然の責務としてしっかり取り組む」との言葉を引き出した。

直接抗議から数日後。「平和市長として大きな一歩を踏み出したと評価したい」。県被爆者手帳友の会の井原東洋一会長は、市長との面会の席でこう言ってたたえた。

久間発言で図らずも存在感を示した田上市長。だが「平和市長」との賛辞の多くは、その強いアピール力を指す。市長自身の平和の理念の中身を必ずしも意味しない。

「六十二年間続いてきた核兵器廃絶のリレーの中に私もいる。これをどうつなぎ、何ができるか考えていく」。そう決意を語る田上市長が訴える平和とは。その意味が問われ続ける。(おわり)