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戦争の記憶 10 銃後の北有馬村
女が防空演習、道路補修

2005/10/08 掲載

銃後の北有馬村
女が防空演習、道路補修

日中戦争が拡大した一九三八年から太平洋戦争の敗戦色が濃くなった四四年にかけ、島原半島東南部の北有馬村(南高北有馬町)の医師、故原口徳寿さんは16ミリカメラで銃後の暮らしを撮影した。召集令状で出征する兵士の見送り風景、留守を守る女性たちの姿などが残されたフィルムからよみがえる。

出征する兵士たちは日の丸の小旗が揺れる中を馬に乗って駅まで行進。途中ではもちをまいた。国民学校の児童たちが当時珍しかったブラスバンドで軍歌を演奏し盛り上げた。兵士たちは駅のホームに並び一人一人あいさつ。「バンザイ」の声に送られ列車が動きだした後も、子どもたちは線路に降りていつまでも手を振った。

原口医師はこうした別れの光景を何度も何度も撮影した。「最後の姿になるかもしれない男たちの姿を家族に残してあげたいという一心だった」。長女、勤子さん(80)が父の思いを代弁する。

出征場面に登場する柘植義利さん(94)は四三年、陸軍兵として二度目の応召で中国戦線へ。二男、英利さん(66)は義利さんが出発する数日前、座敷で軍刀を抜いてかざした軍服姿の父と、それを見て火が付いたように泣き出した弟の姿を鮮明に覚えているという。

農業主体の典型的な日本の村だった北有馬村。四〇年の人口は六千四十八人。農家の働き手、勤め人、最後には駐在まで戦地に駆り出され、村から男性の姿が消えた。

原口医師の親せきで、学校などで上映会が開かれるたびに近所に触れ回っていた長門昭子さん(76)は「知り合いが召集されると寂しい気持ちだった」と当時を語る。長門さんの兄も軍人。「戦死を知らせる電報が届くのはなぜか夜。『夜中の足音は好かん』と母がつぶやいたのを覚えている」

女性たちは千人針や戦地に送る慰問袋を作ったり、男たちに代わり防空演習、道路の補修にも当たった。農繁期には、女性の戦争協力機関として活動した地元の国防婦人会が農家の子どもたちを預かるなどした。口加高等女学校の生徒だった長門さんらも、慣れない田植えを手伝ったが「苗がきちんと立っているか不安で、翌朝こっそり見に行った」。

国民学校の運動会では銃がリレーのバトン。障害物競走はかっぽう着で兵隊にお茶を運ぶ「支度競争」に取って代わるなど、戦時色で染まった。女学校ではイモなど農作物はもちろん、麻薬の原料となるケシも栽培。実を傷つけて流れ出る黒い汁を集めて軍に送った。そのにおいで気分が悪くなる生徒が続出したという。

戦火が激しくなると、港に並んだ上陸用舟艇を狙い米軍の戦闘機が山をかすめるように飛来し、機銃弾を打ち込むなど攻撃した。村はもはや銃後といえる状態ではなかった。女性たちも大村や長崎など各地の軍需工場に動員された。

長門さんは四四年、動員先の大村の第二十一海軍航空廠(しょう)で空襲に遭った。「立派な防空壕(ごう)があったが、入れるのは偉い人と機械だけ。われわれは物以下の扱いだった」と振り返る。「空襲は航空廠に壊滅的な打撃を与えたのに『“盲爆”、損害皆無』と報じられた。一般市民は本当のことを知らされていなかった。これでは日本は負ける」と思った。

長門さんは時折、子どもたちに当時の体験を語り聞かせる。「戦争は殺し合い。銃後も関係なく、すべてを失ってしまう。フィルムに残る生活に二度と戻ってはいけない」と

原口徳寿医師のフィルム 当時高価だった16ミリフィルムカメラで1930年代の北有馬村の祭りや日常生活を撮影し「村内ニュース」として定期的に上映したほか、100人を超える出征兵士の姿を撮影した。約20巻が現存する。