反核に生きて
 =秋月辰一郎の足跡= 1

原爆投下の翌年、診療所で働く秋月辰一郎さん(中央)。右はすが子さん

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反核に生きて =秋月辰一郎の足跡= 1 あの日
目の前で息絶える人々

2005/10/24 掲載

反核に生きて
 =秋月辰一郎の足跡= 1

原爆投下の翌年、診療所で働く秋月辰一郎さん(中央)。右はすが子さん

あの日
目の前で息絶える人々

被爆者医療に献身し、長崎の反核平和運動をリードした長崎平和推進協会初代理事長の秋月辰一郎さん(89)が二十日、約十三年の闘病生活を経て静かに息を引き取った。自ら被爆者でありながら、精力的な行動で運動の礎を築いたその足跡をたどり、被爆地長崎の六十年とこれからを考える。

「先生に見ていただける日が来ることを願ってます」―。

残暑厳しい九月八日、秋月辰一郎をモデルにしたアニメ映画「アンゼラスの鐘」の監督、有原誠治(57)は、病床の秋月を見舞い、映画の完成を報告した。

映画は、自ら被爆しながら被爆者の治療に奮闘した秋月と医療スタッフの姿を描いた。だが、秋月本人は一九九二年十月に倒れて以来、植物状態のまま。制作は家族の証言、写真、秋月の著書だけが頼りだった。「何から何まで手探り。先生の苦悩をもっと、もっと表現したかった…」。有原はそう振り返った。

あの日、爆心地から一・四キロ離れた浦上第一病院(現聖フランシスコ病院)の診察室。秋月は患者の胸に気胸針を刺そうとしていた。そばに、後に妻となる看護師の村井すが子がいた。

秋月は著書「長崎原爆記」(六六年)に、原爆投下の瞬間をこうつづる。「『伏せろ』と叫ぶと同時に、気胸針を患者から抜いた。その瞬間、ピカリ! 白色の閃光(せんこう)が輝いた。次の瞬間に、ガアン!ガラガラ―巨大な衝撃が、私たちの体に頭上に、そして病院に加えられた」

反原爆を歌う歌人の竹山廣(85)=西彼時津町=はその時、二階の病室にいた。結核の治療を終え、兄の迎えを待っていた。「(投下の)騒ぎが収まって病室から出ると、階段のそばで秋月先生が『逃げろ、逃げろ』と叫んでいたことをよく覚えている」

医療器具も薬もすべて焼けた。丘の上の病院を頼りに押し寄せる負傷者たちは、ぼうぜんと立ちつくす秋月の目の前で次々に息絶えていった。

終戦後郷里に戻った竹山は、秋月があれから三年間、病院を片時も離れず苦悩したことを、秋月の著書「死の同心円」(七二年)で初めて知ったという。

「私にこの記録を書かせたのは治療も十分に受けられないまま、この世を去っていった人びとの地底からの叫びである」(「長崎原爆記」)。

秋月は、その声なき声の向こうに、惨劇を知りながら原爆を投下した人間の心の恐ろしさを見る。それが被爆者医療に身をささげ、反核運動に突き進ませる原動力となった。

「先生は毎日午後、往診に出掛けていた。助けたくても助けられなかった被爆者への思いをずっと引きずっていたのだろう」。四十年間、同病院で事務職員として働いた深堀好敏(76)=長崎平和推進協会写真資料調査部会長=は語る。(文中敬称略)