消えた“証人”
 =長崎の被爆遺構= 5(完)

半年余の保存運動を見詰めてきた旧新興善小の正門。この門だけは残される=長崎市興善町

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消えた“証人” =長崎の被爆遺構= 5(完) 想像力 告発する力に希望託す

2004/07/25 掲載

消えた“証人”
 =長崎の被爆遺構= 5(完)

半年余の保存運動を見詰めてきた旧新興善小の正門。この門だけは残される=長崎市興善町

想像力 告発する力に希望託す

日本の反核運動をリードしてきた被団協代表委員の山口仙二さん(73)は、二十年来務めた長崎市原子爆弾被災資料協議会の委員を辞めた。同協議会は、原爆関連資料保存の“目付け役”的存在でもある。

委員として最後に出席した五月末の同協議会で、山口さんは市が提案した立山防空壕(ごう)=立山一丁目=の保存方針に“異議”を唱えた。

この防空壕には終戦前、県や警察の幹部が詰め、避難指示を出していた。「あの日、空襲警報が解除されなかったら、私は原爆にやられなかった。多くの人が助かった。あの中にいた参謀長は何をしていたのか。防空壕は残さなくてもいい」

山口さんは、原爆投下の第一報を打電したといわれる防空壕の歴史的な功罪が十分に検証されないまま、保存、公開の準備が進む状況への怒りをぶちまけた。委員辞任も、場当たり的な行政への抗議が込められていた。

「八月九日を原点に、原爆がどんなものだったか告発するのが被爆遺構。その点、被爆直後の救護所だった新興善小は十分、告発する力を持っていた」。山口さんは、市立図書館建設に伴い、六月末までに解体された旧新興善小校舎(興善町)をこう見詰めていた。
七月十八日午前、真夏の太陽が照りつける爆心地公園(松山町)。長崎で被爆した山川剛さん(67)は、労働団体の青年部が主催する被爆遺構めぐりの案内役を務めていた。

公園内の「被爆地層」。人の骨、衣服、茶わんのかけら、瓦―。ガラスの向こうに、原爆で瞬時に破壊された“生活”がはっきりと見える。

山川さんは、焼け野原と化した爆心地近くの写真を広げながら、こう語り掛けた。「皆さんが今、立つ場所は人の骨の上です。原爆で家ごと押しつぶされました。そう思い起こしながら、歩いてください」。若い組合員たちは、コンクリートの地面をじっと見詰めた。

「本物の被爆遺構がかき立てる想像力」。新興善小保存運動では、この声が多くの市民にも行政にも議会にも届かなかった。それでも、街角に残る“八月九日の記憶”をたどり、語り続ける被爆者たちがいる。もし、再び“証人”が消えようとしたら、声を上げるだろう。

「被爆者が一人もいなくなったとき、私たちの案内で遺構をたどり歩いた人たちが、私たちのことをふと思い出し、子どもや孫に語ってくれたらいい」

いつかやってくるその日、被爆遺構が果たすはずの役割に、山川さんは希望を託している。