59年目の検証
 =原爆戦災誌改訂へ= 1

戦災誌の改訂作業に取り組む荒木正人さん=長崎市平野町、長崎原爆資料館

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59年目の検証 =原爆戦災誌改訂へ= 1 ライフワーク 83歳 人生の手記そのもの

2004/07/27 掲載

59年目の検証
 =原爆戦災誌改訂へ= 1

戦災誌の改訂作業に取り組む荒木正人さん=長崎市平野町、長崎原爆資料館

ライフワーク 83歳 人生の手記そのもの

原爆被害の実態を膨大な資料や証言で記録した「長崎原爆戦災誌」(長崎市編さん、全五巻)の改訂作業が始まった。第一巻の発行から二十七年。被爆体験の風化が時間の経過とともに深刻化していく一方、新たに判明した歴史の事実もある。改訂作業に携わる二人の被爆者の思いや五十九年目の検証の現場を紹介する。

長崎原爆資料館(長崎市平野町)の一室。原爆関連の書籍や被爆者の手記を高く積み上げた長机で、長崎平和推進協会写真資料調査部会の荒木正人(83)=西彼長与町=と丸田和男(72)=長崎市城山台一丁目=が原稿用紙に向かう。作業は週二回。朝から夕方まで続く。

荒木はこの春、同資料館から戦災誌改訂の依頼を受けた。体調は決していいとは言えない。長丁場の作業に耐えられるだろうか、と迷った。そんな背中を押したのは息子や娘たちだった。「締めくくりの仕事と思って、やってみんね」

原爆被害の集大成として知られる「長崎原爆戦災誌」。荒木は、その“生みの親”でもある。

日本が太平洋戦争に突入する直前の一九四一年八月、市役所に入庁した。一年余りの兵役を経て、戦況の悪化とともに戦時色が強まる長崎に戻り、疎開事務などに携わった。

四五年八月九日。荒木は、とっさに庁舎に逃げ込み難を逃れたが、仕事熱心で優しかった父を爆心地付近で亡くした。その後の終戦、戦後の混乱、困窮、戦災復興―。無我夢中で駆け抜けた。

市の原爆被災復元調査室長だった七三年、被爆者団体など七団体から要望書を受け取った荒木は、上司に「戦災誌」の編さんを進言した。刊行が決まると、そのまま事務局の責任者として走り回った。

企画・立案、執筆、編集、校正―。「着手してみると、被爆の実態を伝える資料があまりにも少ないことに気付いた。とにかく資料を手当たり次第に集めて回ることから始めた」

上司への進言から七年後の八〇年秋、荒木は定年を迎えた。しかし、編さんは予定の五年間を大幅にずれ込み、その後も嘱託職員として作業を続けた。最終巻が出たのは八五年。全五巻に十二年の歳月を要した。

被爆六十周年に向けた今回の改訂事業は、全五巻のうちの第一巻「総説編」が対象。二年間で、企業や学校名、文章の見直しを進める。刊行後に分かった歴史的事実や証言もある。「今なら、被爆の実相をより克明に記録することができるはずだ」

荒木にとって、戦災誌は人生の手記そのものでもある。「戦災誌は、天が私に与えたライフワーク。父を原爆で亡くし、自らも被爆したからこそ、この仕事ができる。結論を急がず、腰を据えてじっくり取り組みたい」(文中敬称略)