夢物語、胸高鳴った少年時代…長崎空港きょう開港50周年 「陰の功労者」とつながる恐竜博物館長の思い

長崎新聞 2025/05/01 [11:00] 公開

「チャレンジする大切さを学んだ」と語る髙江さん=長崎市、ベネックス恐竜博物館

「チャレンジする大切さを学んだ」と語る髙江さん=長崎市、ベネックス恐竜博物館

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大村市箕島町の長崎空港は5月1日、開港50周年を迎えた。世界初の海上空港が誕生した経緯を本紙で報じたところ、ベネックス恐竜博物館(長崎市野母町)の髙江晃館長(59)=大村市出身=と、開港の「陰の功労者」との意外なつながりが判明した。半世紀前の大人たちの姿が今も髙江さんを突き動かしている。

 記憶の中のその人は、ツナ缶をつまみに酒を飲んでいた。父の旧友で、泣き上戸。幼かった髙江さんは膝の上に乗り、いつも涙ながらに“夢物語”を聞かされた。「大村の未来のため、平和のための『不沈空母』をつくりたい」

 1968(昭和43)年12月、大村市議会で箕島に空港をつくるよう訴えた当時の市議、池田実雄さんだ。「池田のおじちゃん」と髙江さんは呼ぶ。

 池田さんは戦時中、大村海軍航空隊に所属。箕島が航空母艦に見え、空港建設地にふさわしいと考えた。だが、周囲を海に囲まれた海上空港の前例は世界中どこにもない。周囲から白い目で見られながら、1人で島へ渡り測量したという。

 同市協和町の髙江さん方へ来ては、父と酒を交わした。滑走路の位置を検討した図面を広げ、架橋構想を膨らませた。戦時中、同僚を亡くした経験から「平和利用」にこだわった。幼い髙江さんに「頑張ってね」と言い、また泣いた。

 公害の少なさなどで海上空港の利点は次第に浸透。久保勘一知事(当時)が島民を説得し、72年に13世帯66人が島を離れた。髙江さんは父に双眼鏡を買ってもらい、家から島の様子を毎日眺めた。ダンプカーの整地作業に「おじちゃんが言いよった空港のどんどんできよる」と胸が高鳴った。

 市立中央小3年だった75年2月、父が亡くなった。開港3カ月前だった。その後も、池田さんとの交流は続いた。

 同年5月に海上空港が誕生し、久保知事の用地交渉は語り草となった。半面、池田さんの活動は歴史の陰に埋もれた。周囲は顕彰の機会を望んだが、本人は控えめだった。髙江さんは悔しさを募らせていた。

 4月25日付の本紙に池田さんの名前が載った。元島民への取材から浮かび上がった情報を基に、過去の市議会の会議録を調べた記事だった。「びっくりした。一生ないことだと思っていたのでうれしかった」。本紙記者に連絡を取った。

 長崎市職員として観光行政などを手がけ、2021年、恐竜博物館の初代館長に就任。市南部の地域振興に励んでいる。あらゆる事業に挑んできた「新しもの好き」な気質は、半世紀前の光景が「深層心理に焼きついたのかも」。常識にとらわれず、困難を乗り越える大切さが今、身に染みて分かる。

 「不沈空母」から大村の空へ機体が飛び立つ。「おじちゃんはすごかったな」と、夢物語の実現をこの目で見た少年時代に思いをはせている。