プロ14年「やり切った」 現役引退したJリーガー兵藤慎剛 国見高、早大、横浜Mでタイトル獲得

2022/02/27 [12:30] 公開

重圧の中で地元優勝を果たした2003年のインターハイ(長崎ゆめ総体)

 昨季限りでプロサッカー選手を引退したFW大久保嘉人(39)に続いて、国見高の黄金期に10番を背負った選手がもう一人、スパイクを脱ぐ決意をした。MF兵藤慎剛=長崎市出身=、36歳。世代屈指の技巧派として早くから注目され、プロ入り後も横浜Mで主将を務めるなどリーダーシップを発揮した。最後は国見高の大先輩、高木琢也監督(54)が指揮するJ2相模原でプレー。今月引退を発表した地元出身Jリーガーに自らの競技人生やサッカーへの思い、これからについて聞いた。

 -2008~16年の横浜Mをはじめ、プロ14年のうち13年をJ1でプレーした。J1通算338試合出場で36得点。20年に仙台を戦力外となり、半年間は無所属だったが、21年夏にJ2相模原に加入して7試合に出場した。プロ生活を振り返って。
 感謝しかない。小学2年のころにJリーグが始まった時から、サッカー選手になるのが夢だった。現実にできて幸せだし、長く応援してくださったファン、サポーターの方々に感謝しかない。家族、指導者、チームメート。多くの人に支えられた14年間だった。

 -昨年末で相模原を契約満了となった後も、今季の開幕直前までオファーを待った。納得する形の引退だったのか。
 本音はまだまだやりたい。だけど、プロとしての需要がなくなった時が終わる時。20年に仙台を満了になった時はどこかに入れるだろうという甘い考えがあったし、あのタイミングでの引退だったら絶対に悔いが残っていた。でも、その後も練習を続けていると、半年後に相模原が拾ってくれた。もう一度プロの舞台に戻れた。しっかりやり続けたら見ていてくれる人がいるんだと実感した。最後の年は覚悟を持ってやれたので、やり切ったと言える。

 -横浜Mでプロ生活を始めて1年目で主力に定着。2年目に副主将、3年目に主将を任された。
 マリノスというビッグクラブでスタートできたのはプラス。日本を代表する先輩たちからプロとしての必要な多くのことを学んだ。当時主将だった河合竜二さんからはプロとしての姿勢や厳しさを。元日本代表の中沢佑二さんは練習場に絶対一番早く来て、念入りに体の準備をしていた。あれだけ試合に出ているのに大きなけがをしない。特に2人には勉強させてもらった。

 -思い入れのある試合やシーズンは。
 2013年のリーグ優勝が懸かったホーム新潟戦。僕は7万人収容の日産スタジアムを満員にしたいってずっと呼び掛けていて、ファン、サポーターがそれを実現してくれた。でも、舞台を整えてくれていたのに結果を出せなかった。悔しくて覚えている。そして、その年の天皇杯で優勝して借りを返せた。また、決勝の相手がリーグ優勝をかっさらわれた広島だったので、やり返せたという意味でも13年シーズンは濃い。

 -早大時代は年代別日本代表の主将をずっと任されていた。だが、プロ入り後は日の丸から遠ざかった。中盤という評価が分かれがち、数字に表れにくいポジションだからこその葛藤や、逆にやりがいがあったのでは。
 まず、大好きなサッカーを職業にできていることがすでにやりがい。与えられた役目を果たすのが大切だと思ってやってきた。いかにチームが勝つかが最重要で、その中で個性を出して勝利に導ければ最高。どのポジションでもやれるくらいの柔軟性が大事だと思ってやってきた。
 足でやるサッカーはミスがつきまとう。僕は限りなくミスをゼロに抑えて、チームがやりやすいサッカーに導くのが役目、僕の特長だった。評価されにくい面はあるが、結果、チームが勝てればいい。

オンラインでインタビューに答える兵藤。セカンドキャリアは地元長崎にも経験を還元できるような活動を考えている

 代表に届かなかった悔しさは、もちろんある。自分に力が足りなかったと思うし、もっと数字でアピールする力も必要だった。

 -国見高の故・小嶺忠敏監督が「歴代最高の主将」と評していた。プレーだけでなく人間性を含めて内外から評価された。
 直接そう言われたことがないので、うわさが独り歩きしてるんじゃないのかと思っている。何か特別なことをしたわけではないし、派手なキャプテンシーもない。一つだけ言うとすれば「模範になるように」と気に掛けてはいた。試合でも一番声を出して、当たり前のことをしっかりやる。それだけ。特別なことをやろうとかはまったくない。
 昨年9月、J2の試合で長崎に来た際、前日練習していた時に突然、小嶺先生が来られた。まさか亡くなるとは思っていなかったが、あの時にお会いできて、現場で「まだまだサッカーしてます」と直接伝えられたのは本当に良かった。

 -セカンドキャリアをどう描いているか。
 ありがたいことにいくつかお誘いがあったが、サッカーという狭い世界しか知らないので、2年間くらいは勉強の時間に充てたい。価値観を広げることで恩返しできる幅も広がると思う。ただ、サッカーに軸足は残すし、今年中に長崎でも何かやりたいと思っている。長崎のサッカーがまた強くなってほしいし、長崎自体を盛り上げたい気持ちは大きい。

 【略歴】ひょうどう・しんごう 長崎市出身。茂木小3年でサッカーを始め、海星中へ。国見高では3年時に主将を任され、同級生の平山相太らと2003年度のインターハイ(長崎ゆめ総体)と全国高校選手権を制した。早大時代は2年時にユニバーシアード優勝、ワールドユースの日本代表主将を務め、4年時は全日本大学選手権を制してMVPに選出。08年のプロ入り後はJ1横浜Mで9年過ごし、13年に天皇杯で優勝した。17、18年にJ1札幌、19、20年にJ1仙台、21年にJ2相模原でプレーした。身長172センチ、体重68キロ。