新天地…祖母の思いも連れて行く 18歳木場さんが関東に進学 体験聞き取り、平和活動続ける力に

長崎新聞 2025/04/01 [10:40] 公開

祖母の美登里さん(左)から被爆体験を聞き取る笑里さん=長崎新聞社

祖母の美登里さん(左)から被爆体験を聞き取る笑里さん=長崎新聞社

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長崎市内の高校で平和活動をしてきた木場笑里(えみり)さん(18)はこの春、関東の大学に進学。被爆地長崎を離れる前に、改めて話を聞いておきたい人がいた。市内に暮らす祖母で被爆者の美登里(みどり)さん(86)。新天地で活動を続ける原動力とするため「おばあちゃんの体験と平和への思いを確かめたい」。3月中旬、祖母の隣で80年前の記憶に耳を傾けた。

 1945年8月9日。当時6歳の美登里さんは母ときょうだい2人と共に、諫早の親戚宅にいた。長崎から死者や負傷者が運ばれ、幼心に「大変なことがあったと分かった」。長崎市梅香崎町の自宅に帰った約1週間後、入市被爆した。
 忘れられないのは、戦後しばらく同居していた女性のこと。伯母の職場の同僚で、爆心地に近い松山町の自宅に戻れずにいた。9月のある朝、「女性が髪をくしでとかしていると、ぼそっと抜け落ちた」。女性は度々、家族を捜しに松山町の方に向かっていた。
 爆心地付近を歩いたことによる放射線障害とみられる。当時は原因が分からなかったが、幼かった美登里さんたちに「影響があったらいけない」と、女性はそれから家を出ていった。伯母によると、間もなく亡くなったという。
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 県内の短大を卒業後、中学校で体育の教員として働いた美登里さん。「子どもたちに当時のことを話した?」。笑里さんが問いかけると、意外な答えが返ってきた。「あえてしなかった。原爆に遭ったこと、長崎に住んでいたことは絶対に話すなと母に言われていたから」。被爆者健康手帳を取ったのも定年退職後。笑里さんの祖父に当たる夫にも結婚後しばらくは伏せていた。
 被爆者ということを隠し「後ろめたさ」を感じていた美登里さんは2年半前、笑里さんに尋ねられ、初めて体験を口にした。被爆の記憶を語れる人が減る中、「自分が知っていることだけでも、記録として残せたら」との思いがある。
 笑里さんは活水高の平和学習部に所属し、核兵器廃絶を求める「高校生1万人署名活動」や若者の平和活動を伝えるため海外派遣も経験。祖母をはじめ数多くの被爆者に話を聞いた。「声を上げられないまま亡くなった人や、それを見てきた被爆者がいた。大学では核兵器について詳しく勉強し、なぜなくすべきなのか考えを深めたい」。そう語る笑里さんの隣で、美登里さんは何度もうなずいた。