高校教諭が語り部デビュー 長崎の交流証言者の男性、歌人の夫妻の被爆体験伝える

長崎新聞 2025/05/07 [10:00] 公開

講話で前川明人さんの歌を紹介する稲尾さん=長崎原爆資料館

講話で前川明人さんの歌を紹介する稲尾さん=長崎原爆資料館

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被爆者の体験を語り継ぐ長崎市の「家族・交流証言者事業」で、同市の高校教諭、稲尾一彦さん(59)が語り部としてデビューした。歌人、前川明人さん=96歳で死去=と妻多美江さん=89歳で死去=の被爆体験を講話し、「2人は世界の平和や核兵器廃絶への思いをいくつもの歌に残した。その思いを共有し、平和について考えてほしい」と呼びかけた。
 明人さんは17歳の時、爆心地から約3キロの長崎本博多郵便局で被爆。強烈な閃光(せんこう)が走り、局内のガラスや書類は吹き飛んだが、幸い無事だった。外は肌が黒く焼けた人が大勢逃げ惑い、「地獄のようだった」。
 多美江さんは当時、県立長崎高等女学校1年の12歳。蚊焼町に疎開するため、爆心地から約3・4キロの飽の浦町にあった自宅で荷物をまとめていた時、ねっとりとした閃光、ごう音、地鳴りに襲われ、茶の間から荷物と一緒に玄関まで飛ばされた。
 戦後、多美江さんは結核を患い療養所に入院。短歌サークルに入り、歌人になった。そのころには明人さんも歌人の道を歩んでおり、明人さんが原爆がさく裂した時の光景を詠んだ「原爆の閃光に直ぐとみな立ちしあの日の局員の目玉忘れぬ」は、さく裂直後の驚きを隠せない局員たちの表情をありありと伝えている。
 稲尾さんが2人と出会ったのは約5年前。高校の部活動の一環で前川夫妻の半生や短歌をまとめたドキュメンタリー番組を作ったことがきっかけだった。「より多くの人に、2人の歌人の話を伝えたい」と思い、3年前から交流証言者の準備を始めた。
 介護施設にいた多美江さんの体験は過去の取材を基に原稿化。明人さんには何度も体験を聞き直し、亡くなる数カ月前まで、原稿や発表スライドを見てもらった。
 4月27日に平野町の長崎原爆資料館で初講話を終え、「2人が元気なうちに話したかった」と悔しさをにじませた稲尾さん。「被爆者から体験を直接聞けた私たちの世代が語り継ぐ必要がある」と証言活動への決意を語った。
 同28日時点の家族証言者は15人、交流証言者は44人。