「運命の地」に38年ぶり ローマ教皇 世界にメッセージ

2019/11/25 [11:45] 公開

信者らに手を振りながらミサ会場を回るローマ教皇フランシスコ=24日午後1時26分、長崎市松山町の県営ビッグNスタジアム

 ローマ教皇フランシスコが24日、長崎市を訪問した。約7時間の短い滞在ながら、爆心地公園(松山町)で核兵器廃絶を訴え、日本二十六聖人殉教地(西坂町)で祈りをささげ、約3万人が集まった県営ビッグNスタジアム(松山町)でミサを執り行った。

 長崎県のカトリック信者は約6万人を数える。国内ではとりわけカトリック信仰が盛んな土地柄だ。長崎という土地は何百年も前から教皇がやって来る日を待ちわびていた。

 長崎は戦国時代の1571年、ポルトガル貿易のために開港した。町中にたくさんの教会が建ち並び「日本のローマ」と呼ばれた。1582年に長崎を出発した天正遣欧使節の少年たちはローマを訪問し、当時の教皇グレゴリオ13世とシスト5世に謁見(えっけん)した。

 だが、豊臣秀吉は1587年に「伴天連(ばてれん)追放令」を出し、1597年に長崎・西坂で26人の信者(日本二十六聖人)を処刑した。江戸幕府は1614年、全国に禁教令を出し、長崎の教会をことごとく破壊した。捕まった多くの信者は残酷な刑罰を科されて殉教していった。

 県内の長崎、外海、生月、平戸、五島列島と熊本・天草では、多くの「潜伏キリシタン」がひそかに信仰を続けた。片岡弥吉著「長崎のキリシタン」によると、長崎地方の潜伏キリシタンは「沖に見えるはパーパの船よ 丸にやの字の帆が見える」という歌を口ずさんだという。聖母マリアの印を掲げたパーパ(教皇)の船が、いつかやって来ると信じ、教皇への崇敬を保ち続けていた。

 潜伏キリシタン信仰の中心的な土地の一つが長崎・浦上だ。1865年、浦上の潜伏キリシタンが大浦天主堂(南山手町)を訪ね、フランス人のプティジャン神父に「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ」と信仰を告白した。

 「信徒発見」の知らせを受けた当時の教皇ピウス9世は目に涙を浮かべ「このような神の恩恵はわが世に一度であろう」と感激したという。1873年、信仰は解禁となり、基本的人権の柱の一つである信仰の自由が日本にもたらされた。

 1945年8月9日、かつての潜伏キリシタンと子孫が暮らす浦上に、米国が原子爆弾を投下した。浦上は一瞬にして灰じんと化した。約1万2千人の浦上カトリックのうち約8500人が死亡したといわれる。

 キリシタン弾圧、そして原爆という過酷な運命をたどってきた長崎に1981年2月、教皇として初めて故ヨハネ・パウロ2世がやって来た。60歳の教皇は25日から2日間滞在し、浦上天主堂、二十六聖人殉教地、大浦天主堂、聖母の騎士修道院、恵の丘長崎原爆ホームなどを精力的に巡った。

 特に、大雪の中、爆心地に近い市営陸上競技場(松山町)で開かれた歓迎集会の熱気は語り草となっている。約4万7千人を前に説教した教皇は「私は巡礼者として長崎に来た」と語りかけた。禁教期からの願いが現実となり、会場は大きな感動に包まれた。

 それから38年。教皇が再び長崎の土を踏んだ。長崎の記憶が教皇フランシスコの祈りと共鳴し、愛と平和の尊さを訴えるメッセージとなって世界に発信された。