長崎県大村市箕島町の長崎空港が1975年の開港から50周年を迎えた1日、箕島の元島民らによる慰霊祭が島内の花文字山で執り行われた。元島民の大島弘美さん(78)=同市木場1丁目=は「先人が築いた島は、立派な空港になった。誇りに思う」と語った。
13世帯66人が住んでいた箕島は60年代、空港建設の候補地に浮上。久保勘一知事(当時)の交渉を経て、島は72年3月に「解散」した。それ以来、先祖供養のため毎年5月1日に慰霊祭を実施している。
島の南部にあった大島さん方はミカンやダイコンを栽培する農家だった。気候に恵まれ「本土より豊かな生活」だったが、空港建設予定地になり「路頭に迷う感じがあった」という。
本土へ移り住んだ後は空港で働いた。職場から見える景色に「あの辺に家があったな」と思いつつ、本県になくてはならない交通拠点となった古里を誇らしく感じた。開港50周年を迎え「国内、海外にもどんどん足を伸ばせる空港になってほしい」と話した。
滑走路に隣接し「NAGASAKI」とかたどった植栽で知られる花文字山の中腹に「法界万霊慰霊碑」がある。慰霊祭は碑の前で開かれ、元島民でつくる「箕島会」や空港の関係者ら約50人が参列。時折航空機の音が響く中、50年の歳月に思いをはせた。
同会の山口敏實会長(73)=同市須田ノ木町=は「ここから空港を望むと感慨深いものがある。皆さまに愛される、安全で利用しやすい空港として今後も活用されることを願う」と語った。
13世帯66人が住んでいた箕島は60年代、空港建設の候補地に浮上。久保勘一知事(当時)の交渉を経て、島は72年3月に「解散」した。それ以来、先祖供養のため毎年5月1日に慰霊祭を実施している。
島の南部にあった大島さん方はミカンやダイコンを栽培する農家だった。気候に恵まれ「本土より豊かな生活」だったが、空港建設予定地になり「路頭に迷う感じがあった」という。
本土へ移り住んだ後は空港で働いた。職場から見える景色に「あの辺に家があったな」と思いつつ、本県になくてはならない交通拠点となった古里を誇らしく感じた。開港50周年を迎え「国内、海外にもどんどん足を伸ばせる空港になってほしい」と話した。
滑走路に隣接し「NAGASAKI」とかたどった植栽で知られる花文字山の中腹に「法界万霊慰霊碑」がある。慰霊祭は碑の前で開かれ、元島民でつくる「箕島会」や空港の関係者ら約50人が参列。時折航空機の音が響く中、50年の歳月に思いをはせた。
同会の山口敏實会長(73)=同市須田ノ木町=は「ここから空港を望むと感慨深いものがある。皆さまに愛される、安全で利用しやすい空港として今後も活用されることを願う」と語った。