ロマンの銘菓「長崎物語」秘話 長崎の歴史、文化… CMに郷愁誘われ

2024/04/13 [11:03] 公開

 ♪ながさき~ながさき~長崎物語~。県民なら誰もが耳にしたことがある長崎県の銘菓「長崎物語」のCMソング。おなじみのメロディーに乗せて、長崎の風景、歴史、文化をつづるローカルCMに、郷愁を誘われる人も多いのでは。県民の記憶に刻まれたあの歌とCMには、どんな“物語”があるのだろうか。ふと気になり、関係者を訪ねた。

おなじみの歌が初めて使われた「長崎物語」の1970年のCM映像。老紳士が長崎での幼少期に思いをはせるというストーリーだった(唐草提供)

◆パン屋の菓子
 製造元の「唐草」(長崎市)によると「長崎物語」は1967年に発売。市内でパン工場を経営していた創業者の江原克巳さん(故人)が、パンに代わる新たな主力商品として開発した。細長いバウムクーヘンにクリームを詰めた洋菓子は当時珍しく、発売直後に大手航空会社の機内食に採用され評判に。江原氏は間もなく菓子事業を独立させ「唐草」を起業した。当時の新聞記事で「パン屋の菓子というイメージを取り除く」という狙いを語っている。
 同社の三丸裕也営業部長(40)が、社内からCMソングの歌詞カードとDVDを探し出してくれた。♪愛と天使の街を 人は訪れる-と始まる歌詞は、山川啓介さん(故人)の作詞。青い三角定規の「太陽がくれた季節」や岩崎宏美さんの「聖母(マドンナ)たちのララバイ」の作詞の他、NHK人形劇の脚本家として知られる。
 歌はスリー・グレイセス。1960年代に活躍した3人組の女性コーラスグループで、紅白歌合戦の出場歴もある。ただグループが所属したレコード会社には、CMソングの記録は残っていなかった。

◆破格の制作費
 DVDは非売品で、70~84年に制作されたCM計45本を年代順に収録。おなじみのCMソングは、3作目「ハタあげ、こま遊び編」(70年)から登場し、その後もアレンジ版を含め繰り返し使われた。72年には長崎ハタ職人、73年には樺島町の太鼓山(コッコデショ)に取材したCMを放映。県内各地の伝統文化や家族の“物語”を、ドキュメントタッチで描くスタイルが定着する。
 「当時としては破格の制作費。プロの映画監督を呼び、35ミリフィルムで撮影した」。CMを放映するKTNの元社員で、現在は広告代理店「一広」(同市)に勤める上野公憲さん(76)は述懐する。KTNで唐草の営業を担当し、創業者とも親交があった。「商品だけでなく、“物語”を売るというこだわりがあった」と評する。
 一広は75年の設立当初から唐草のCM制作を担当。小嶺明弘社長(63)は、「子どもながらに『長崎物語』のCMは他と違うと感じていた。手がけたCMはわが社の財産」と語る。歴代のCMは2003年に、フィルムを修復してデジタル化。浜屋百貨店(浜町)の唐草店舗のモニターで上映している。

「長崎物語」の歴代CMを上映している唐草の販売店。パッケージは発売以来変わらない=長崎市浜町、浜屋百貨店

◆箱もこだわり
 「長崎物語」のパッケージは発売当初から全く変わらない。三丸部長によると、これも創業者のこだわりで、先にパッケージが決まり、それに合わせて細長い形状の菓子が完成したという。長崎の歴史と物語を感じてもらおうと、外箱には、鎖国時代にジャカルタに追放された人々が日本へ送った手紙「ジャガタラ文」をあしらった。
 ちなみに同じタイトルの歌謡曲「長崎物語」の歌詞も「ジャガタラ文」がモチーフ。1939年に由利あけみさんの歌として発表され、あまたある「長崎の歌」で最初の全国ヒットとなった。戦後にもリバイバルしていて、パッケージがこの曲に着想を得た可能性もある。
 経費と手間をかけたCM制作やパッケージ先行型の商品開発からは、「パン屋の菓子」に“物語”の付加価値を与え、「ロマンの銘菓」として売り出した創業者のブランド戦略がうかがえる。三丸部長は「戦後間もないころはパンが売れたが、人々が豊かになり、新たな価値を求めるようになった。時代の変化を創業者は敏感にキャッチしたのではないか」とヒットの背景を自己分析する。
 ♪思い出にあげたい 美しいロマン~。半世紀近く親しまれたメロディーを口ずさみ、あらためて頬張ると、口の中に銘菓のロマンが広がった。